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キリストのみ心の中でその愛を生き、宣べ伝えるために

No.1039

 キリストのみ心の中で

その愛を生き、宣べ伝えるために

 

愛する姉妹の皆様

イエスとマリアのみ心に捧げられた6月は、愛といつくしみと優しさの光の中で心から再出発し、わたしたちの信仰の旅の一歩一歩を見極めるための貴重な招きとなることでしょう。

教皇フランシスコは6月5日の一般謁見で、イエスのみ心の崇拝に関する新しい文書について述べられました。その目的は、「教会の刷新への道を照らすため、また、それだけではなく、その心を失ってしまったかのように思える世界に大切なことを伝えるためにも、主の愛のさまざまな様相について黙想することにあります。」教皇は、「以前の教導職による教えと、聖書にさかのぼる長い歴史の貴重な考察のまとめ、全教会に対して、この霊的な美しさにあふれた信心を改めて提案する」文書として考えています。

心そのものは、言葉では言い表せない親密さの中で、被造物である人間が神と出会う場所です。聖書の言葉は、「心の思い」や「心を改める 回心」というような表現で表し、「心を尽くして神を愛する」ようにと勧めます。イエスは、「心が鈍く」信じられない弟子たちを叱責されます(参照 ルカ 24, 26)。「柔和で謙遜な心」をご自分から学ぶよう弟子たちを招かれます。神はしばしば、人間に向かって話すとき、その心に語りかけます。あるいはご自身の心について語られます。キリストのみ心の観想は、日々忠実に生きられた信頼に満ちたsequela(キリストに従うこと)が、穏やかさ、優しさ、平和、真の愛徳の業を周囲に蒔くことのできる女性とすることを、わたしたちに思い起こさせてくれます。

 

キリストの 使徒的愛の源

去る6月8日、わたしたちが大きな熱意をもって参与する体験をした大会は、マードレ カテリーナ・ダゲーロの姿について、共創立者のスタイルに倣い、教育について論理化するのではなく、身を粉にして、新しい歴史的、社会的ニーズに具体的な答えを与えようとする、扶助者聖マリアの娘としてのマードレ・マザレロの最初の後継者をわたしたちに提示しました。総長として、福音の生み出す原理と会の真の精神に基づいて会を導きます。愛徳は彼女にとって基本的かつ戦略的な価値であり、それは、他のすべてに優先すると最初のチルコラーレに書いている程です。 「神と隣人に対する聖なる愛を心からお勧めします。」(1882年1月22日付チルコラーレ)サレジオのカリスマの本質的な核心であり、マードレ マザレロの心からの教えと熱烈な願いである愛徳への呼びかけは、宣教において効果的に表現できるように、共同体の中で交わりと行動となる愛を生きる助けとなる表現を、彼女の中に見いだします。

実際、姉妹たちを 「愛徳の最前線に立つように!」と励ましていました。サレジオ会の奉献生活の選択をした人のうちには、このような使徒的ダイナミズムが生き生きとしていなければならないと諭しながら、扶助者聖母会において、 「愛徳は実践的でなければなりません 」と言っていました。(Aspetti carismatici-educativi del governo di madre Caterina Daghero, Roma, 8 giugno 2024).

わたしたちはドン・ボスコのことを知っています。「彼が心の中で非常に熱心に抱いていたみ心の信心は、彼のすべての事業に活力を与え、家族的な会話、オメリア、聖職の実践に効果を与え、それによって誰もが魅了され続け、納得させられたほどでした。また、イエスのみ心も、彼の困難な使命を遂行するために超自然的な助けをもって協働しているようでした。」(Arnaldo Pedrini, Don Bosco e la devozione al S. Cuore, pag. 17, Opera Salesiana via Marsala 1987)

み心の信心は、教皇から頼まれたローマの大聖堂の建設においてだけではなく、何よりも、すべての使徒的インスピレーションの源であるda mihi animas cetera tolleの発露として湧き出る、あの実践的な愛徳において、最も良く表現されています。

わたしたちの会憲の第7条は、予防教育は「使徒的愛の体験であり、キリストのみ心そのものから湧き出るものであって、マリアの母性的配慮を模範とする」と述べています。

第24回総会議事録は、予防教育は、そのものとして、人間の尊厳とその成長のリズムを大切にし、人を人間らしくさせる力を有していることを強調しています(C66参照)。子どもたちや若者たちの中にいるわたしたちの存在が、彼らの教育に対する創造的な気配りとなり、出口のないように見える状況に新しい答えを見出すことができるようにします。ヴァルドッコやモルネーゼのように、現存とは、何よりも「vado io」に温順であることを、マリアはわたしたちに教えます(参照 第24回総会議事 7)。

 

イエスのみ心のうちにあなた方を残します

マードレ マザレロにとって、心とは、個人的な宗教体験の動機付けの深さと根幹を表しますので、わたしたちが心を込めてする祈り、心から捧げる祈りについて話すことができるほどです。何よりも、彼女が手紙の中で絶えず訴えている祈りの仕方があります。それは、神として、また人間としてのイエスとの個人的な出会いの中で、イエスのみ心の中で、イエスに託された祈りです。

使われた動詞が置かれた文脈から、この心がいかに神聖な場所であるかが分かります。そこでは、イエスという人と祈る人との間に激しい熱烈な出会いが行われます。そこは、人が入り、対話し、共に祈り、留まることができ、他の人との関わりを築くことのできる場所です。

Sr.アンジェラ・ヴァレーゼに宛てられた手紙22の中で、マードレ マザレロは、娘たちが人間の言葉だけでなく、神との魂の言葉を学ぶようにと心配しています。「もう、フランス語は上手になったかしら? この世の言葉を勉強するときには、神様とお話する魂の言葉も勉強なさい。神様は、あなたに聖人になるための学問を教えてくださるでしょう。そしてそれが唯一本当の学問なのです。…少なく話すこと、被造物とはもっと少しだけ話すこと、むしろ、主とはたくさん話すこと、神様は、あなたを本当に賢くしてくださるでしょう。」 祈ることが難しいという姉妹や少女たちを前にして、マードレ マザレロは、たとえ方言であってもイエスに話しかけるように、イエスとの親密さを失わないようにと勧めました。 

それは、各自がそれぞれの内面性の本質的な行程に従うことを受け入れることを求めます。感情だけでなく、存在の中心である心へ向かう長く忍耐強い歩みです。この内面性から、信頼と平静さに満ちた本物の祈りが生まれます。だからこそ、マードレ マザレロはこう言うのです。「心から祈ることをお勧めします。」(手紙 29, 3)

「主をお愛ししていますか。心から?」(手紙 23, 1) イエスのみ心は、煩わしいことが解決され、静けさと平和への道が開かれる場です。「イエス様を信頼しなさい。あなたのすべての心配ごとを、イエス様にお預けしてお任せするのです。そうすれば、すべてを良いようにしてくださるでしょうから。」(手紙 25, 3) 「いつも朗らかでいてください。そして悲しみがあったら、すべてイエス様のみ心に置いていらっしゃい。」(手紙 47,10)

「さあ、勇気を出して! あなたが疲れて気落ちしたときには、イエス様のみ心の中にあなたの気掛かりなことを置いていらっしゃい。そこで、あなたは慰められ、心が軽くなるのをおぼえるでしょう。」(手紙 65, 3)

イエスのみ心に馳せ寄ることは、詩編55:23「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる」と、イエスの言葉「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ 11, 28) の招きが思いだされる信頼に満ちた委託のしるしです。

マードレ マザレロにとって、主のみ心は姉妹たちとの出会いの場でもあります。「あなたがたに確かなことを言いましょう。毎朝、尊いみ心の中で、私はあなたがたに語りかけています。聖なるご聖体の中で、私はたくさんのことを一人ひとりに話しかけているのです。」(手紙 27, 6) 「イエスのみ心の中で語り合いましょうね。あのすばらしいみ心の中であなたがたが一致しているとき。」(手紙 39, 2)

イエスのみ心に根ざした交わりの絆は、距離を打ち消すほど強いものです。「私たちを隔てている海は果てしなく広いのですが、イエス様の聖なるみ心の中で、私たちは会うことも共にいることもできるのです。私たちは、いつでもお互いのために祈ることができます。そうすれば、私たちの心はいつも一つなのです。」(手紙 22,1)

マードレ マザレロが、アルゼンチン人として最初の召命の一人である修練者メルセデス・スタブレールに語りかける、非常に人間的、かつ、母性的な表現があります。

「あなたに会うことはできなくても、あなたはいつも私の心の中にいますし、あなたをイエス様とマリア様に会えるようにしない日はありません。」(手紙 62, 4)

マードレは、自分の娘たちや姉妹たちが使命感や自身の歩みの目的を決して見失わないように助けます。モルネーゼでも、他の場所でも、イエスに従う要求は同じです。ですから彼女は、ウルグアイの2つの支部のうちの1つの院長に任命されたSr.ジュセッピーナ・パコットに、私利私欲や野心から何かを要求するのではなく、真に謙虚であるようにと勧めます。マードレは用心深く先見の明ある知恵をもって、兄弟的な生活を妨げ、心の交わりを妨げるある未熟さに対して彼女に警告を発します。その贈られた言葉の中で、あたかも霊的な遺言のようなものがあります。

「もしあなたの十字架がとても重いと思えるときには、首にかけた十字架をごらんなさい。そしてこう言うのです、『ああ、イエス様、あなたは私のすべての力です。あなたと共にいれば荷は軽くなり、疲れはいやされ、とげは優しさに変わります!』 大好きなSr.ジュゼッピーナ、あなたはあなた自身を打ち負かさねばなりません。もしそうでなければ、すべてがやっかいで耐えられないものになるからです。私のSr.ジュゼッピーナ、これが、記念として私があなたに贈ることのできるすべてです。」(手紙 64, 5-6)

マードレ マザレロはまた、自分の弱さ、自分の罪に閉じこもらないようわたしたちを招いています。

彼女は、このような態度が、心を重くし、魂のエネルギーを閉じ込めるガラクタとなる危険性を認識しています。むしろ、わたしたちが教育使命を果敢に、寛大に、そして信頼を持って歩むことができるように、魂のエネルギーは解放されなければならないのです。

イエスの愛に全面的に信頼し、イエスのみ心にすべてを委ねることは、マードレにとって、落胆や不適切さによる倦怠感を克服する助けとなる、真の活力を与える 「治療」です。

この点に関して、その手紙の中に偉大な霊的、養成的な知恵の表現が見られます。「自分が欠点だらけなことに気づいても、がっかりしてはいけません。気落ちせずに、謙そんになって、信頼をもってイエス様とマリア様のところに走って行くのです。それから、勇気を持って、恐れずに前進をお続けなさい。…いつも喜びをもっていらっしゃい。そして、主においてこんなにもあなたを愛しているだれかのことを、決して忘れないでください。そのだれかは彼女の貧しい祈りの中で、いつもあなたとともにいます。」(手紙 66, 4.6)

マードレ マザレロは、わたしたちも、イエス・キリストの愛からわたしたちを引き離すものは何一つなく、誰一人いないということ、限りない赦しを与えることのできるその愛においてのみ、わたしたちは神の地平へ心と思いを広げる喜びの希望を呼吸することができるという確信をしっかり持つようわたしたちを促します。

教皇フランシスコの次の言葉と深く調和しています。「私たちは神とともに歩んでおり、決して一人ではありません。勇気を出しましょう、だから勇気を出しましょう! 主の弟子であるという喜びを奪われないようにしましょう。「しかし、教皇様、わたしは罪人です、どうしたらいいでしょうか?」 主があなたを見つめ、あなたの心を開き、あなたの上に注がれるその眼差し、その慈しみを感じなさい。そうすればあなたの心は喜びに満たされるでしょう。…主とともに、主の慰めの力とともに、この人生を生きる希望を奪われないようにしましょう。」(謁見2016年9月14日)

マードレ マザレロにとって大切な表現をいくつか引用しましたが、他にも手紙やクロニストリアの中には、私たちの心と人生を神のうちに定め、イエスのもとに導く 愛する青少年と魂以外には何も求めないよう助けとなる表現がたくさんあります。

わたしは、わたしたちの美しい修道家族において、モルネーゼの召命的、宣教的豊かさについての認識を広げ、それを今日新たにするため、マードレ マザレロの霊性を絶えず深めるという務めを皆さんにお任せします。

サレジオ会の伝統に従って、ドン・ボスコの霊名日が6月24日にヴァルドッコのオラトリオでお祝いされたことを思い出します。サレジオ家族とともに、総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ枢機卿様に親愛の情を表します。また、全教会への奉仕というその使命が善い実りをもたらしますよう、扶助者聖マリアにお委ねします。

聖ペトロ、聖パウロ使徒の祭日を祝う今月、教皇フランシスコのために特別な祈りをお捧げしましょう。主が健康と聖霊の知恵をお与えくださり、良き牧者としての働きを通して教会を導き続けることができますように。

南部管区の友愛と愛情に満ちた歓迎のもと、黙想会のため総評議会の姉妹たちと一緒にいるサンタニェッロ・ディ・ソレントから、親愛の心を込めてあなたがたを思い起こし、特に危機的状況や苦しみの中にある共同体のため、わたしの祈りをお約束します。

最後に、Sr.アンジェラ・ヴァレーゼとヴィラ・コロンの姉妹たちに宛てたマードレ マザレロの言葉で皆さんにご挨拶いたします。「イエス様のみ心に、あなたがたを委ねましょう。あなたがたを祝福し、皆をご自分のものとしてくださり、あなたがたをいつも一致させ、朗らかでいさせてくださいますように、祈っています。」(手紙 17, 5)

 

ローマ 2024年6月24日

 

皆様を愛するマードレ