No.1041
君に女の先生をつけてあげよう
愛する姉妹の皆様
今月、わたしたちは総評議会の姉妹たちとともに、「いのちを生みだす活性化のために」に関する9回のセミナーのうち最後の2回を終了しました。このセミナーは、恵みと喜びによって、わたしはカリスマ的な活力と五大陸の多数の扶助者聖母会員との深い交わりの貴重な出会いを体験することができました。わたしたちのカリスマの豊かさは、わたしたちの心に畏敬の念と感謝と賛美を絶やすことがありません。また、姉妹たちの寛大で情熱的な献身と彼女たちに託された使命の教育共同体に対しても同様です。
ファティマ:サレジオ家族のための恵みのイベント
このチルコラーレでは、「君に女の先生をつけてあげよう」というテーマに触発され、ADMAによって推進・組織された第9回扶助者聖マリア国際大会の間、ファティマ(ポルトガル)でわたしが経験した素晴らしい体験を、簡単ではありますが、皆さんと分かち合いたいと思います。
ヨハネ・ボスコの9歳の夢から出発した大会の目的は、マリアが母であり、教師であり、サレジオ家族全体をイエスと、最も助けを必要としている青少年をに寄り添い、導いてくださる方であることをもっとよく知られるようにすることでした。
この夢は、オラトリオの次元にわたしたちを連れ戻してくれます。それは、予防教育法に忠実に実現された教育的使命として、また聖性への道として表現されます。したがっていのちの神秘を、召命と使命として、しばしば困難であっても実り豊かな識別の中に受け入れるよう強く求められています。
これはサレジオ家族として、わたしたち全体に関係するものです。そして、日常生活における神の現存を常に新たな意識をもって生きるよう、わたしたちに促します。それは神秘的な存在であり、特に最も貧しい青少年に救いの告知が実現される出会いです。
大会は多くの参加者に、よい羊飼いであるイエスの愛、マリアの母性的導き、そして謙遜、寛容、優しさ、親しみやすさを特徴とする人間関係のスタイルに鼓舞されたサレジオのカリスマについての深い考察の時を提供しました。それは、ドン・ボスコが夢の中で見た「身に着けているマント全体が輝いており、ひとつひとつの部分がきらめく星」のような女性、扶助者聖マリアとマンマ・マルゲリータから学んだ教育法の原点に立ち返ろうという呼びかけでした。
国際大会は、人類と教会の歴史、とりわけサレジオ会の召命の歴史、すなわちわたしたちの歴史におけるマリアの介入を 「振り返る」ために、祈りと潜心、黙想、落ち着いた雰囲気のある典型的なマリア的な場所、ファティマで開催されました。
多くの共同体が、それぞれの可能性に応じて、高く評価された講話や会話が行われた数日間のプログラムに参加することができたことをわたしは知っています。
世界中から集まった 1,400 人の参加者の中で、わたしたちFMAは 60 人でした。短期間ではありましたが、わたしたちは出会い、広大な国際的息吹の素晴らしさを楽しみました。
これは、わたしにとっては、地域の現実の中に生きるマリア的宣教の活性化と、サレジオ的カリスマの豊かさを信徒や青少年と分かち合うことに感謝する素晴らしい機会でした。
わたしたちは、本会とADMA(扶助者聖マリアの会)のマリア的アイデンティティが、ともにその起源から、マリアの現存と霊感を与える役割を認識する霊性の特異なことをサレジオ家族にもたらしていることを思い起こしました。
夢の中でイエスご自身がヨハネ・ボスコに先生としてお与えになった聖母は、わたしたちの賢明で母性的な導き手であり、その召命と使命を共有するすべての人々にとっても、常にそうであり続けています。
実際、サレジオの使命は、その誕生と先進的な発展において、マリアの霊感と予防的(先見的)イニシアチブ、また、常に積極的で母性的な存在なくして、説明することはできません。
眼差の力
大会の内容を黙想しながら、ジョバンニーノが9歳のときに見た夢、すなわち世界におけるサレジオのカリスマと、わたしたちの修道家族における歴史と体験とが繋がっているこの夢にもう一度思いを寄せることが興味深いことと気づきました。
「女の先生」が現れることによって、その場面には知的な美しさに満ちた対話が開始されます。ジョバンニーノが聞いた声は、彼の中で生涯、響き続けるでしょう。
先生とは、まさに彼を知り、彼に従った人の人格の中に消えることのない「しるし」(segno=un in-segnante)を残します。真の師に出会った人は、責任と賜物という2つの貴重な価値を自分の人生において活かす努力をすることを遺産として受けます。
ジョバンニーノは 「君に女の先生を付けてあげよう」と言われ、この先生は、今日、わたしたちにも豊かな恩恵の恵みを与えてくださいます。大会では、「より多くの、より多く」、つまり、最大の助けと導きを意味する「magister:教師」の意味が分かち合われました。
マリアは、ドン・ボスコに何かを始める前に先ず、「観ることを学ぶこと」を教え、今日、わたしたちにも、母であり教育者として、自分の目で 「観る 」方法を知るように教えます。「観る」ということは、見る以上のこと、「見える」ではありません。マリアはジョバンニーノにこう呼びかけています。「観なさい!」と。
「このとき、この方のかたわらに気高い姿の女の人がいるのに気づきました。身に着けているマント全体が輝いており、ひとつひとつの部分がきらめく星でできているかのようでした。わたしがどぎまぎしながら質問したり答えたりしているのを見て、この女の人はご自分の方に近寄るように合図し、やさしくわたしの手を握って言われました。『ごらんなさい』。見ると、あの子どもたちの姿は消えていました。そして、かわりに、数多くの子山羊、犬、猫、熊、その他多くの動物がいたのです。」ジョバンニーノが最初に驚くのは婦人の目です。彼は彼女に優しく、愛情をもって観られ、知られていると感じます。彼は、自分の苦悩、苦痛、混乱の状況を理解してもらっていることに気づきます。マリアはジョバンニーノの心境をすぐに察知し、まず、共感に満ちたまなざしで彼を迎え入れました。ヨハネ・ボスコの魂に刻まれた最初のマリア的な体験は、まさに、静けさと聖性を放つマリアの眼差し、見守り、保護し、気遣うまなざし、自分に引き留めず、いとおしむまなざしです。
マリアは、神に見つめられることが何を意味するかを知っておられ、「卑しいはしためを顧みられる」からだと主をたたえます。
列聖調査が開始されたドン・トニーノ・ベッロ司教は、マリアは息子を産着でくるむ前に、その限りなく優しいまなざしで息子を包まれたと断言します。歓迎ともてなしのまなざしを持つ女性マリアが、その幼児を見つめるのは、彼が神の子であり、おん父と人類との間のあらゆる距離を埋めるために来られた自分の息子だからです。
また、イエスがヨハネのうちに、わたしたちすべてをマリアの母性に委ねられた時、十字架の下で苦しみながらも、愛と歓迎に満ちてヨハネを見つめるマリアのまなざしを想像することもできます。わたしたちは常にこのまなざしを必要としており、何世紀にも、何世代にもわたり、信者も信者でない人も、マリアにその慈愛に満ちたまなざしを向けてくださるよう求めてきました。
マリアは、魂のあるところに目を留めます。彼女の中では目と魂はひとつです。単なる反射鏡ではなく、内と外の世界、無限と有限をつなぐ敷居であり、窓であり、場所でもあります。中と外を超越する彼方(かなた)で一つにまとめ、いつもそれを心にかけておられます。彼方とは、わたしたちとは異なる方、神、わたしたちの視線を越え、同時にそれを通してわたしたちに公開されていない地平を示して下さる方、すなわち神の場であることを知っています。目を上げて見なければならない人と、目を下げなければならない人がいます。マリアは神を見るために、もはや目を上げる必要はありません。なぜなら、マリアはすでに神をその腕の中に迎え入れていますから、また、わたしたちとともに歩んでいますから、わたしたちを見るために視線を下げる必要も、もうありません。
目は、わたしたちの中にあるものを外に現します。(目は心の窓です。)それを通して、人々、状況、そして世界がわたしたちの中に入り、わたしたちが見たり、体験したりすることの奥へと入って行きます。
眼差しは、わたしたちを取り巻く現実の歴史、光、期待、困難を受け入れる最初の明確なしるしです。
停滞させる否定的な眼差しと、その清さと純粋さをもって、非常に困難で遠い所にまでも、いのちの光をもたらす力のある眼差しがあります。それは今日でも、帰る道を見失った息子や娘たちが我に返り、慈しみ深い父のもとに帰るのを常に準備して待っている眼差しです。
目は世の暗やみの小さな光のようなものであり、その眼差しは、希望の小道の火を灯すことができることをマリアは、教えてくださいます。
マリアの眼差しと同様なわたしたちの眼差しは、姉妹たち、青少年、協働者、すべての人に向けられなければならないはずです。これはひとつの緊急の使命、すなわち、日常生活の中でできる目立たない福音宣教の喜びです。わたしは、ある男の子がしばしば本会の一人のシスターの眼差しを探し求めていたことを覚えています。 なぜなら、その賢明な無邪気さで、彼は興奮してこう言っていたからです。「その中にイエス様が見える」と。
「街へ出ていき、よく観察しなさい」
観察することは、区別する、学ぶ、理解する、選択をする「方法 」を識別することができるため、意図的に注意を払うことを意味します。イエスとおん父、マリアとイエス、イエスと洗礼者、使徒たち、信徒たちの間で、「目を天に上げる」眼差しによる相互理解は、主の使命において真の力が働く場を作ります。それは、本当の救いの関係を生み出す、目に見えない、破壊することができない力の場です。
ご覧なさいと、マリアは9歳の少年ジョバンニーノに向かって言います。当然、未だ完成されていないとはたくさんありますが、この命令にはたくさんの未来があります。
「観なさいguarda」と言う動詞は、若い司祭ヨハネ・ボスコに、自分の将来の選択に関する個人的な識別において、ドン・ジュゼッペ・カファッソが勧めたことです。ドン・ボスコにとって、彼の生涯が完全に青少年のために費やされることは明らかですが、どこから、どのように始めればいいのでしょうか。「街へ出ていき、よく観察しなさい」とドン・カファッソは提案します。
ドン・ボスコはトリノの街や広場を歩きまわり、周辺を見回し始めます。孤独で、搾取され、怠けている少年たちがたくさんいます。しかし、彼らは皆、空腹で目的もなく過ごしています。人々は彼らを危険人物として避けるべきだと良く知っています。彼らはほとんどの場合、刑務所に入ることになりますが、このつらい経験の中でドン・ボスコを導くのは、やはりドン・カファッソです。観察しなさい。衝撃は強力で、壊滅的です。狭くて暗い独房に閉じ込められているのは、悲しみに暮れ、見捨てられた12歳から18歳までの少年たちのグループです。ドン・ボスコは、17年前に夢で見た彼らだと気づきます。彼らを見て、彼らだと分かり、そこに現存しておられる主を認めます。その部屋、そして暗く悲しい生活の中で、彼は消えることのない主の光を認めます。
最初の、そして忘れられない夢と同じ女の先生が、彼の手を握っています。
彼らは狼ですが、女の先生の側で、ドン・ボスコはもう彼らを子羊として見ています。もし彼らが、自分たちの世話をしてくれる友をひとりでももっているなら!
一つの直感。一つの呼びかけ。一つの課題。その瞬間から、ドン・ボスコはもはや同じではなくなりました。彼の人生と使命は今や、街を歩きまわり、疲れを知らず周囲を見回る父の生涯と使命となります。ドン・ボスコは、彼のサレジオ会員たちに、また青少年たちにさえも、いろいろな言葉をもってこれを繰り返すことでしょう。「街へ出ていき、よく観察しなさい」と。
教皇フランシスコが頻繁に、執拗にわたしたちに促しておられるように、真の同伴は、勇気と愛を持って外へ出向かせ、人間の存在の周縁に連れ出すことしかできません。だからこそわたしたちは、現代の暗いゾーン(地帯)において、より良い未来に信頼して観るため、青少年が必要としている主の消えることない光を反映するため、主の過越の神秘に ますます、一緒に入って行くことが強く求められていると感じています。「街へ出ていき、よく観察しなさい」という切迫した招きが、わたしたちの心に響くのを感じます。
ドン・ボスコは、当時のトリノの青少年に実際に会いに行きましたが、今日、わたしたちもまた、絶えず変化する現実、文化、時のしるし、見逃せない教育上の課題に耳を傾けたいと思っています。それは、本会のアイデンティティの本質的要素である宣教的次元をさらに強化するために、さらに前進するよう、わたしたちを駆り立てるカリスマ的な呼びかけです(会憲75参照)。
会憲6条では、最初の瞬間からマードレ・マザレロが共有し、自身のものとして引き受けていたドン・ボスコの政策となる理想「我に霊魂を与え、他のものは取り去りたまえ」を想起しています。この深い憧れが、わたしたちの創立者たちを、小さく、貧しい人々に惜しみなく完全な贈り物になるように導いたのです。キリストに従うことと歴史に深く根ざした宣教性は、使徒的な大胆さとして表され、わたしたちの存在とわたしたちに委ねられた人々についての絶え間ない生き生きとした刷新の探求において、わたしたちにとって教育的情熱へと変えられます。ヴァルドッコとモルネーゼで共有された使徒的緊張は、熱烈で、確信に充ちていました。また、中心人物や自己主張を求めない、究極としてはいのちの犠牲によって表現していました。
わたしたちは、扶助者であり、教育者であるマリアに委ねましょう。マリアが、わたしたちの共同体における兄弟的生活と宣教の 選択において、識別することのできる眼差しをわたしたちのために取りなしてくださるよう、創造力の強さ、勇気、わたしたちの青少年司牧を導いてくださるマリアのpresenzaへの全面的な子としての信頼を得させてくださいますように。
幼いヨハネの夢だけでなく、何よりも神の夢を実現したいのであれば、わたしたちのマリア的なアイデンティティ、カリスマ性の DNA を常に思い出しましょう。 わたしたちは、先生であり、母であるマリアの力強い助けによって、狼がおとなしい子羊に変わる奇跡が今日も起こりうることを知っています!
第24回総会の要請に応えて、サレジオ家族部門は教皇庁立教育単科大学 「Auxilium 」と協力し、世界のサレジオ家族のさまざまなグループに 「君に女の先生をつけてあげよう 」と題したオンライン研修を提供していることを、この機会にお知らせしたいと思います。
このコースは、キリストと人類の母であり教育者であるナザレのマリアの人物と使命についての理解を提供し、特にサレジオのカリスマに言及しながら、マリア的霊性の聖書的、神学的、人間学的基礎を深めることを目的としています。
わたしは何よりも、扶助者聖母会の皆様に、さまざまな言語で提供されるこの貴重な研修の機会を最大限に活用していただきたいと思います。
わたしは、さまざまな大陸に散らばる総評議会の姉妹たちに代わり、親愛の情をこめてご挨拶申し上げます。そして、わたしたちの支部共同体、教育共同体において、すべての人への注意深い、共感的な、励ましのまなざしの中に輝く愛のエコシステム(生態系)がますます実現され、青少年が主イエスを受け入れ、すべてを捧げものとして主に従っていくことができるよ願いながら、わたしの祈りをお約束します。
ローマ 2024年9月24日
皆様を愛するマードレ