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亡き姉妹のおもかげ Sr.山田

シスター 山田 律子 マグダレナ

 

帰天年月日

2025年12月26日

場所

東京都

修道生活

69年間の修道生活

略伝

 

 Sr.山田律子マグダレナは、1935年11月15日、長崎県長崎市で7人兄弟姉妹の長女として生まれ、生後2日目に浦上教会で洗礼を受け、マグダレナの霊名をいただき、愛情いっぱいに育てられました。

 家庭について多くを書き残してはいませんが、両親は信仰深く、働きもので、謙虚に生きることを大切にし、人としての生き方をしっかりと導いたと言っていました。1945年8月9日、9歳の時に長崎原爆の痛ましい体験をしました。永井 隆医学博士ご夫婦とそのお子さんたちとも親しくしていたと話していました。よく「ああ、長崎の、長崎の鐘が鳴る…」と歌っていたその歌声には、平和を願う切実な思いが込められていました。

 召命については、子どもの頃から漠然とではあってもいつかシスターになりたいとの望みをもっていたようです。「純心中学校卒業後、将来、何になろうかと思案している時、シスター山田和子アニェーゼの姿を見て、自分もFMAなろうと決意をしました」と言っていました。その後も、数名のFMAのシスター方、特に宣教女方と出会い、明るいシスターたちの生き方に魅了され、シスターになり、子どもたちの中で働きたいという願いが確実になったようです。

 こうして1951年4月、別府・聖心修道院に志願者として入会、初期養成の時のことを次のように書いています。「志願期の時、一度家に帰りたい気持ちをシスターカルメラ院長様にお話しすると、すぐに許してくださり帰省しましたが、一日過ぎると、また修道院に戻りたい気持ちが強くなりました。召命についての困難は、その後一度もありませんでした」と。1954年1月にポストラート、続く2年間東京 扶助者聖マリア修道院での修練期を経て、1956年8月5日、初誓願を立てました。20歳の時でした。

 初誓願を立てるとすぐに別府聖心修道院に派遣され、明星幼稚園において4年半、その後、目黒修道院に異動し、当時の目黒サレジオ小学校にて7年間、音楽と宗教科を担当しました。1968年からは赤羽の扶助者聖マリア修道院にて10年間、星美学園幼稚園の教諭として奉仕、再び別府の明星幼稚園で6年間、続いて大分修道院の大分明星幼稚園で8年間、1993年からは山中雪の聖母修道院で山中の児童養護施設・星美ホームで9年間、東京守護の天使修道院の星美ホームで6年間、山中で4年間、児童養護施設でアシステンテとして使命を生き抜きました。2010年、長崎修道院に異動し、長崎星美幼稚園の補助として園児たちと関わりました。2016年4月より東京守護の天使修道院で静養の生活に入り、昨年2024年3月半ばにベトレヘムの園病院に入院し療養していましたが、12月26日早朝、愛してやまない神のみもとに、やすらかに召されました。こうして90年の生涯、69年の修道生活を全うしました。

 Sr.山田は、サレジアン・シスターとして、生涯を通して幼稚園や児童養護施設の子どもたち、特により小さな子どもたちの中で、小柄な体に広い母の心をもって、与え尽くしました。Sr.山田は、よく「子どもたちと共にいることが何よりの幸せだった」と言っていました。

 Sr.山田が愛した聖書の言葉は「主においてつねに喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます」という使徒パウロの手紙の一節です。この言葉に忠実に生き抜きました。

 守護の天使修道院で共に生活した一人のシスターは、「少しの時間があれば、ご聖体の前で頭を垂れ、指を組んで真剣に祈っている姿が印象的でした。この方は、ご聖体と若者たちのため、そして修道者として生きる姿勢を最後まで崩しませんでした。その姿勢が、周囲を活気づける言葉や行動として自然に表れていたように思います。子どもを見るまなざしは本当にやさしく、小さな子どもの頭を、お母さんのようにそっと撫でていました。また、助けを必要とする人には、さりげなく、すばやく手を差し伸べていました。Sr.山田から、私たちは多くのお手本をいただきました」と。