No.1050
いのちを生みだす人間性
愛する姉妹の皆様
最初の考察として、わたしの体験を皆さまと分かち合いましょう。先日、ローマ郊外のサクロファーノで開催された扶助者聖母会同窓生世界連合モルネーゼの国際大会に参加いたしました。テーマは「希望を奪われないようにしましょう」(福音の喜び 86)で、5月25日から29日まで行われました。
この聖年において、よく理解しているテーマ、わたしたち皆が希望の巡礼者であるよう招くことについて長々と述べることは控え、むしろ、今回の出会いを特別なものにした、もう一つの重要な要素について強調したいと思います。
会議中に感じられた良い雰囲気について卒業生と非公式に話しますと、誰もが、幼少期と青春期にサレジアン・シスターズと共に過ごした典型的なサレジオ的体験の重要性を強調していました。子どもたちの成長を見守る中で、私たちの共同体が育んできた愛情や温かい迎え入れ、優しさ、無条件の献身は、同窓生たちがわたしたちシスターにとって大切な存在であることを実感させられるものであったこと、また、わたしたちの家が同窓生にとっても「自分の家」であると感じられる場所であったことです。
その人間味にあふれる体験から、この卒業生たち—母親、父親、専門家、教育者—が心と精神に刻んでいるのは、誠実な愛情、育った環境と完全に一体化してしまうほどに息づき、体験した家族的精神です。まさにこの要素が、子どもたちの心と人生に深く刻み込まれたのです。それは、わたしたちの会憲50条に強調されているように、共同体と若者の只中で、分かち合い、自己を犠牲にし、尊重と敬意を持って受け入れ、いのちを生み出す人間性の体験です。
ドン・ボスコの心の創造性のあふれである
家族的精神は、
私たちの各共同体の特長となるべきで
全員に努力が要求される。
したがって、私たち各自は、
開かれた、親しみある対話、
優しさと、真の兄弟的な友情の姿勢のうちに
尊敬と理解をもって
姉妹たちをいつも快く受け入れるように努める。
大会で感じられた家族的雰囲気は、わたしより少しお年を召された経験豊かな一人の姉妹が、わたしに言ったことについて考えさせられました。「私たちが真の共同生活に戻れるよう助けてください。私たちは人間性と兄弟的生活の喜びを失いつつあるのです。」
すぐに、先月5月28日に開催されたレオ14世教皇の謁見を思い出しました。その際、教皇は善いサマリア人のたとえ話についてコメントし、「わたしたちは、信仰者である以前に、人間であることを求められている」と述べられました。時々、私は自分自身に問いかけます。わたしたちは本当に人間性を失っているのでしょうか? 私たちは本当に共同生活の喜びを失っているのでしょうか?
DMAの季刊誌で出会う「私たちのカミラ」は、きっとわたしたちに役立つアドバイスをくれるでしょう。それについて一緒に考えてみましょう。
優しさの強さ
現代のある作家は、人間性の喪失、人間的共感の死は、野蛮の危機に瀕している文化の最初の、そして最も明白な兆候のひとつであると書いています。
自分自身に問いかけてみましょう。それは、わたしたち自身、わたしたちの個人的生活や共同生活にも、個人主義や個人の力、そしてしばしば個人の強引さに焦点を当て、共同体の利益を犠牲にする傾向にある現在の文化がもたらすリスクはないでしょうか。
6月の典礼は、私たちに深い考察を促す二つの重要な時を提供しています。キリストの聖体とイエスのみ心の祭日です。どちらの祭日も、人類のために自分自身を完全に捧げ、パンとぶどう酒という最も慎ましい日常的な形において、わたしたちとともに留まることを選んだキリストの絶対的な愛を表現しています。その開かれた脇腹から、彼はわたしたちにこう言っておられます。「あなたは私にとって大切な存在です」、「あなたのいのちを大切にしています」。そしてまた、「私の記念としてこれを行いなさい、他の人々を思いやりなさい。心から。つまり、私と同じ思いを持ち、私と同じ決断をし、柔和で謙遜な心を持つように」と。
したがって、イエスは私たちに勝利の秘訣、すなわち柔和を示唆してくださいます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。そしてまた、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)とも言っておられます。
柔和によって勝ち取るべきその「地」とは、兄弟姉妹、子ども、若者の救いであり、マタイによる福音書にも語られています。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(マタイ18:15)。人々の心ほど美しい「地」はなく、一人の兄弟、一人の姉妹と平和を取り戻すことほど美しい征服すべき領地はありません。これが、柔和によって受け継ぐ「地」なのです。
柔和はまた、洗練された「親切」とも定義されています。実際、牧会書簡において、使徒パウロは「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないからです」(テモテへの手紙 二 2:24-25)。さらに、彼は次のように勧めています。「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」(テモテへの手紙 一 6:11)と書いています。
柔和は弱さでも、諦めや放棄でもありません。むしろ、人として関わろうとする意志です。柔和は学ぶものです。また、人生がもたらす試練に粘り強く立ち向かっていくことによって成長します。それは、この美徳を修業と克服の成熟した実りとする訓練です。偏見なく真の愛で現実と人々を見つめ、向き合うことを可能にする内的自由への歩みです。
それは、悪の活動と反応の論理に左右されないという特徴を持っている美徳です。イエスは、他人に対しても柔和であることを学ぶためには、自分自身に対して柔和でなければならないことを示されます。受けた悪を返すよりも、「もう一方の頬を差し出す」ことは、より強い力が必要です。
カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿は、ある講話でこう述べています。「柔和な人とは、情熱的な感情を抱きながらも、柔軟であり、捕らわれず、内的な自由、常に自由の神秘に非常に深い敬意を抱く人です」と。
また、フランシスコ教皇は次のように指摘しています。「柔和は多くのものを守ります。柔和は心に打ち勝ち、友情を救い、さらに多くのことを成し遂げることができます。なぜなら、人は憤っても、心を落ち着け、熟考し、再び歩み始めることで、柔和によって関係を再構築することができるのです」(一般謁見、2020年2月19日)。
2025年5月8日、教皇レオ十四世は、ペトロの後継者として選出された日の最初のメッセージで、人類が謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和を生きる必要性について語りました。この平和は、尊敬と対話によってのみ生まれ、他者のありのままの権利を認めることから始まるものです。平和を交渉するための対話と外交的手段を信じることは、柔和という手段から再出発することを意味します。
わたしたちの世界はますます速さ、競争、そして攻撃によって特徴づけられています。だからこそ、優しさをまとった柔和は、時折、過小評価されたとしても、必要不可欠な資源であることが明らかになります。
わたしたちは、現実の世界でもデジタルの世界でも、特にソーシャルメディア上で、対立がしばしば衝突に発展し、わたしたちの日常は反省や共感の余地をほとんど残さないようなリズムで刻まれている現実の中に生きています。矛盾するように思えますが、まさにこの状況下で、優しさは革命的な価値を持つようになります。それは単なるマナーの問題ではなく、自分自身と社会を改善するための意識的な取り組みとなるのです。教皇レオ14世のこの言葉を、わたしたち一人一人に語りかけられているものとして、心から受け入れましょう。これは神からの贈り物であり、現実の生活に活かすものです。
福音的柔和の忠実な証人
マリア、イエスの母は、柔和の女性です。その顔の優しさと微笑みの光こそが、最も遠く離れた子どもたちをその心に引き寄せます。彼女は、剛毅と柔和という美徳を見事に調和させています。その力は、内面から湧き出ています。吹きすさぶ風、激しく打ち寄せる海の波にも崩れることのない岩の上に建てられた家の堅固さです。闇の王国に対抗する大いなる試練において、決して揺らぐことなく、決して留まることなくイエスに同伴されます。十字架の傍らに立ち、祈り、苦しみ、捧げるマリアは、勝利まで戦い続ける強い女性のイコンです。それでもこの神聖な力は、十字架の足元においてさえ決して損なわれることのない、穏やかで落ち着いた平静さによって見事に和らげられています。
聖ヨセフもマリアと同様に、暴力ではなく、忍耐という勝利者の力によって自分の性格を鍛える人々の模範です。
言葉による暴力、身体的、心理的暴力が支配的な世界において、それを無力化できるのは柔和だけです。最初は、おそらく敗北かのように見えるかもしれませんが、長い目で見れば、常に必ず勝利します。
ドン ボスコは、予防教育の基本要素として、柔和を実践しました。彼にとって、それは弱さと同義ではなく、むしろ忍耐、理解、そして許す能力をもって挑戦に立ち向かうことを可能にする内的な強さでした。
このようにして、理性、宗教、慈愛に基づいた教育スタイルを提唱し、青少年、特に最も弱く放置された青少年をはじめとした福音宣教と教育にフルタイムで専念することができました。確かに、柔和と優しさを生きることをマンマ・マルゲリータから学びましたが、神の恵みが、エネルギッシュで激情的なその性格を造り変えました。友人ルイジ・コモッロをいじめっ子から守るために取ったキエリでのエピソードを思い出すことができます。
マードレ マザレロは、ドン ペスタリーノの助けをもって、強く、傲慢な性格、短気な気質にうち勝ち、清め、柔和で謙虚な人へと変化するまでの働きにおいて、彼女を導いてくださるよう聖霊に自身を委ねます。その単純さにあって、真の霊の同伴者となります。すなわち、豊かな愛情に恵まれた彼女は、優しさ、忍耐、親切さをもって行動します。類まれな単純さで女性的、教育的カリスマの誕生と発展を、受け入れ、生きています。そのカリスマは、いまだに現代性を持つ善の実りをもたらしています。「君は私たちのオラトリオの精神を知っています」とドン ボスコはドン カリエロに言いました。「私たちの予防教育法と、青少年から愛され、耳を傾けられ、従われるための秘訣は、皆を愛し、誰をも卑しめず、父親のような警戒、忍耐強い慈愛、そして絶え間ない優しさで、昼夜を問わず彼らと共に居ることです。そこでだが、マードレ マザレロは、こうした要素を備えている。だから、私たちは修道会とシスターたちの統治に信頼を置くことができる」と。(Maccono F., Santa Maria Mazzarello, vol I, p. 274)
奉献者、教育者であるマードレ マザレロは、サレジアン シスター(扶助者聖母会員)、サレジオ会員(ドン ジャコモ・コスタマーニャとの関係を思い出すのは美しいことです。彼は彼女を常に「マードレ お母さん」と見なしていました)、若者、女性、家族、すべての人の母となります。
こうして、彼女の列聖からしばらくして、シスター マリア・トロンカッティについて、謙遜で忍耐強く、疲れを知らない奉仕を通して、シュアール族と白人入植者の兄弟姉妹たちへ、自分自身を完全に捧げる贈り物として柔和を生きた彼女の力を明言することができます。
これらは、決して失ってはならない価値を再発見するよう助け、真の兄弟愛を実現するために、今日、かつてないほど重要な意味を持つカリスマへの帰属意識を喜んで再燃させるよう励まされるいくつかの例です。わたしたちは後ずさりすることはできません。いのちを生み出し、さらに豊かないのちを生みだす人間性を証しするよう、一人残らずわたしたちは皆、招かれています。
6月24日、ヴァルドッコのオラトリオでドン・ボスコの霊名日をお祝いしました。サレジオ会の伝統に従い、サレジオ家族の皆さんと一緒に、総長ドン ファビオ・アッタルドに心からの祝意を表し、その生活と使命を祝福し、支えてくださるよう扶助者聖マリアにお委ねしました。
総評議会の姉妹たちと共に黙想会のためチェズーナにいます。聖マリア・ドメニカ・マザレロ、トゥリヴェネタ管区の親切で温かいもてなしに感謝しつつ、皆さまを、愛を込めて思い出し、特に戦争、苦しみ、迫害、貧困の状況下で生活している共同体のために、わたしたちの祈りを約束します。
わたしたち一人ひとりが自らの環境においてヴァルドッコとモルネーゼの純粋な教育環境を創り出すため、自ら進んで貢献し、キリストにおける若者の救いをひたすら求めながら、若者のために、若者たちの間で生きることに柔軟であるよう願っています。
教会として私たちが歩んでいるこの記念の歩みが、決して欺かない希望において、私たちをますます強固なものとしてくれますように。
愛を込めて心からご挨拶をお送りします。
ローマ 2025年6月24日
皆様を愛するマードレ