No.1058
忠実なおとめマリア、わたしたちの忠実を支える
愛する姉妹の皆さん
復活節にあたり、皆さんにご挨拶いたします。
典礼は、復活されたイエスとの個人的な出会いへとわたしたちを招き、特に、日々の歩みを照らし、支えてくれています。それは、マリアや婦人たち、使徒たちが、信仰の驚きのうちに体験したことでもあります。信頼に足る証人たちです。主の受難と死という深い苦しみを体験した後、主を永遠に失ってしまったかのような恐れや悲しみ、苦悩を味わいました。しかし、主の復活の喜びのうちに、彼らの信仰と希望は強められたのです。
復活節の歩みを刻む典礼は、奉献生活を生きる者、またサレジアンとしてのわたしたちの召命の深い動機を支えてくれます。わたしたちは洗礼の恵みによって、イエスのいのちにあずかり、主の過越においてお祝いした死と栄光の神秘のうちに新たにされるよう招かれています。この神秘は、信仰が養われ支えられるすべての聖体祭儀において、今も続いています(参照:教皇レオ十四世「レジナ・チェリ」2026年4月12日)。
わたしたちの人生は、日々新たに主を選び取り、主に忠実であり続けるなら、意味があります。そのために、このチルコラーレで、マリアから霊感を受けられるよう皆さんに提案したいと思います。マリアの忠実は、わたしたちの忠実を支えます。
最初の弟子、最初の宣教者であるマリアとともに
「すべてがマリアのもの」であるわたしたちの修道会は、毎朝、扶助者聖マリアに自らをゆだね、特に試練の時において、わたしたちの忠実を支えてくださるよう願い求めます。なぜなら、まさにその試練の時にこそ、マリアは弟子たちと同じように忠実という試練に直面しながらも、主イエスの母として、退くことも逃げることもなさらなかったからです。弟子たちが主を裏切って離れていったのとは対照的に、マリアはイエスのそばにとどまり続けました。
福音は「十字架のそばに立っておられた」と語っています(ヨハネ19・25参照)。この「立つ」という姿は、揺るがない確かさ、尊厳ある現存、そして愛における強さを呼び起こします。それはまた、試練の中にあってもとどまり続けること、苦しみつつ世の救いのためにいのちを与えられるイエスに、忠実に寄り添い続けることを教えてくれます。
すでにチルコラーレ1056で読まれたように、第25回総会の目標は、「わたしたちのカリスマ的アイデンティティに固有の宣教への情熱を再び燃え立たせること」にあります。
この点はわたしたちにとって本質的なことです。なぜなら宣教性は、神がドン・ボスコとマードレ・マザレロに託され、今日わたしたちに委ねられている、若者の救いの計画そのものから湧き出るものだからです。宣教性は、若者を受け入れ、彼らのそばに「とどまり」、福音とカリスマを今日において喜びをもって生きたいという願いを表す、開かれた共同体を生み出すことの中に具体化されます。それは、わたしたちの聖なる創立者への忠実のうちに実現されるのです。
この努力において、わたしたちはマリアと対比します。マリアは卓越した意味での忠実なおとめであり、自らの人生における神の計画を完全には理解することができなくても、信仰をもって「はい」と応えた方です。マリアは、最初の信じる者であり、その信仰ゆえに「女のうちで祝福された方」であり、イエスの最初の弟子、そして最初の宣教者です。
マリアは、思いがけない、心を揺さぶる告知に対して、惜しみなく「はい」と応えました。そしてその知らせを受けるやいなや、急いで旅立ち、愛の奉仕のためにエリサベトのもとへ向かいます。この行動によってマリアの信仰は、いっそう確かなものとされました。エリサベトもまた、この出会いの喜びの中で、マリアを自分の主の母、そして信じた方として認めることになりました。
マリアとエリサベトは、マニフィカトの賛歌において心を一つにします。それは、信じる者の幸いをたたえ、歴史の織りなす歩みの中に、偉大なことを小さな者や貧しい者のうちに成し遂げてくださる主の現存を見いだす賛歌です。主の偉大さのうちにこそ、小ささは価値を帯びます。神の前に小さき者であるからこそ、マリアは全面的な開かれた心をもって、「はい」と応えることができました。何ひとつ残すことなく。その貧しさゆえに、マリアは神に喜ばれる者となり、神ご自身がその御心において、肉体に先立ってすでに、ふさわしい住まいを見いだされました。こうして神は、人類に近づいて来られました。
霊感の与え手、助け手であるマリア
ドン・ボスコは、わたしたちの修道会に強いマリア的特徴を刻み込むことを望みました。それはまた、サレジオ家族全体―サレジオ会員、サレジアニ・コオペラトーリ、同窓生など―にも当てはまります。しかし、扶助者聖マリアの娘であるわたしたちには、サレジオ家族の中で、特にマリアの母性を表し、マリアを助け手、また教育者・福音宣教者として仰ぎ見つつ、その忠実に生きるという固有の使命が託されています。
「わたしたちも、特に青少年の間で
聖母のように「扶助者」であるために、
聖母の信仰・希望・愛、および
キリストとの深い一致の姿勢を
自分のものとするよう努め、
『マニフィカト』の喜びに満ちた謙遜のうちに生きる。」(会憲4)
扶助者聖マリアの娘であるわたしたちは、召命によって、今日、神への完全な自己奉献を生きたマリアの姿を新たに生き直すよう招かれています。すなわち、常に歩み続ける助け手、宣教者としてのマリアです。ドン・ボスコが望み、トリノの扶助者聖マリア大聖堂にロレンツォーネによって描かれたマリアの姿は、静止ではなく、躍動を語っています。
ドン・ボスコは1875年に著した『扶助者聖マリア』の中で、この絵を次のように描写しています。
「いと聖なるマリアは、光の海の中でひと際目立ち、雲の玉座に座し、星の冠とともに、天と地の女王としての冠を戴いておられる。天使たちの群れがその周りを取り囲み、女王としてのマリアに敬意を表している。右の手には王権のしるしである笏を持ち、『力ある方が、わたしに偉大な業を行われた』という福音の言葉を示しているかのようである。左の腕には御子を抱き、その御子は腕を広げ、助けを求めるすべての人に恵みとあわれみを注いでおられる。画面の上部には父なる神と聖霊が描かれ、そこからマリアの上に光が降り注いでいる。『いと高き方の力があなたを覆う』、『アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、おめでとう』という言葉を思い起こさせる。
さらに下には使徒たちと福音記者たちが描かれ、聖なる驚きの中で、『使徒の女王、わたしたちのために祈ってください』と叫ぶかのように、雲の上に現れる聖母を見上げている。(…)この作品は全体として調和が取れ、自然で美しく表現されているが、何よりも価値あるのは、それを見る者の心に信心深い感動を呼び起こす宗教的な発想である。」
マリアは、子らに心を配る母としての愛のダイナミズムを体現しておられます。しばしば子らの必要に先立って応えてくださる、細やかな配慮に満ちた母です。教皇フランシスコが教えてくださったように、マリアに目を向けるとき、「わたしたちは、優しさと愛情のもつ革命的な力をあらためて信じるようになります。マリアにおいて、謙遜と優しさが弱さのしるしではなく、真の強さのしるしであることを見いだします。人を支配することで自分の重要さを示す必要のない強さです。
また、『権力ある者をその座から引き降ろし』、「富める者を空腹のまま追い返される』(ルカ1,52,53)と神を賛美したそのかたこそ、わたしたちの正義の探求に家庭的な温もりを注いでくださるかただということです」(『福音の喜び』288)。
マリアは、優しさと強さをあわせ持つ母として、生まれつつある教会における交わりを支え、最初の信者たちにイエスに従う忠実を教えられます。十字架のもとにあって、まさにその時、わたしたちの世話をお引き受けになりました。マリアの母性は兄弟的な絆を生み出し、家庭の一致を守り、イエスへの忠実を強め、柔和さと信頼、そして勇気と大胆さに基づく関わりのスタイルを教えてくれます。それはまた、宣教を生き、信仰をもって未来を見つめる生き方でもあります。
わたしたちの召命への忠実 ― このうえなく愛する神への忠実
忠実さは、わたしたちの奉献生活において重要で不可欠な次元ですが、現代という時代にあって試練にさらされています。今日の暫定的な文化は、人生の選択や修道生活への召命そのものにも影響を及ぼしているからです。
忠実さは、現代において軽んじられがちな徳ですが、人間関係においても奉献生活においても、欠くことのできないものです。愛と寛大さをもって生きる忠実さは、わたしたちが神の愛に堅く「とどまり」、唯一で常に新しい主の招きに責任をもって応えることを可能にします。(会憲103参照)。
わたしたちは、忠実さが容易に、また安易に得られるものではないことを知っています。それは、主に従うよう招かれたときの最初の動機を深く自覚することを求め、平凡さに甘んじる余地のない、絶えざる回心の道を歩むようわたしたちを導きます。
わたしたちの会憲第8条を読むとき、とりわけ「このうえなく」という副詞の重みを通して、このことの真実がいっそう明らかになります。
「キリストの救いの使命において
わたしたちはより近くからキリストに従いながら、
聖霊の恩恵の中で
このうえなく愛する神に自分をささげる。」
「このうえなく愛する神」に自らをささげることは、わたしたちを絶えず自己から外へと押し出し、分かち合いと相互の支えとなる兄弟的生活の美しさを味わわせ、個々の忠実さを守り、共同の使命に豊かな実りをもたらしてくれます。
マルコ福音書の次の言葉を、繰り返し読み、黙想することは大切だと思われます。
「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マルコ7・6)。
イエスのこの指摘は、口で語ることと、心において生きること、そして忠実における一致との間にある隔たりを明らかにしています。
わたしたちの共同体にも影響を及ぼし、奉献生活の信頼性を曇らせるような不安や不調和に直面するとき、わたしは自分自身に問いかけます。喜びに満ちた忠実さを生きるために、何がわたしたちに不足しているのでしょうか。
なぜ、長年にわたる奉献生活や実り豊かな使徒的経験を経てもなお、わたしたちは時として主への応答における熱意や新鮮さを失ってしまうのでしょうか?
わたしたち自身に問いかけてみましょう。わたしたちの心は、だれを探し求めているのでしょうか。どんな思いや望みが心の奥深くを占めているのでしょうか。そして、どんな思いや望みにとどまり続けているのでしょうか。
教皇フランシスコは、主に属する喜びを脅かし、同時に奉献生活の信頼性を損なう危険について、たびたび指摘しておられました。すなわち、「個人主義、精神主義、小さな世界に閉じこもること、依存、かたくなな態度、既存の枠組みの反復、教条主義、懐古主義、悲観主義、規則を隠れ蓑にすることなどです」(『喜びに喜べ』134)。
キリスト者として、またサレジアンとしての神秘的な生き方は、イエスとの花嫁的な出会い、すなわち主との関係の質と祈りの生活において完成へと向かいます。そのためには、「最初の愛」、すなわち従う歩みの出発点となった霊感のきらめきをもう一度見つけ出すことが必要です。先に愛したのは、主です。主に従うことは、単に神の愛に愛をもってこたえることにすぎないのです。もし、「わたしたちが愛する」なら、それは「神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネ一4・10、19)。それは、「(キリストは)わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)と使徒パウロをして言わしめたように、あの内的な確信をもって、神の個人的な愛を認めることを意味しています(教皇庁 奉献・使徒的生活会省『キリストからの再出発』 22参照)。
主との親密な交わり、すなわち「最初の愛」へと立ち返ることがなければ、わたしたちは自らのカリスマに固有のアイデンティティに忠実であり続けることができず、使命の実現を単なる人間としての開発促進のための事業や活動に還元してしまう危険があります。さらには、特に最も必要としている若者たちへの奉仕のうちに、実はイエスご自身を愛し、仕えているのだということさえ忘れてしまう危険があります。主ご自身が語られたとおりです(マタイ25・31以下参照)。
わたしたちは使命を果たす中で、確かな聖性への道を見いだします。それは、若者たちとともに日々歩む道であり、会憲第5条が思い起こさせてくれるとおりです。
「わたしたちは、共同体のうちに1つになって、
キリストの救いの使命に全く自由に応じるため、
公式誓願をもって、
貞潔で、貧しく、従順なキリストに
従う義務を負う。
こうして、青少年への福音宣教に
奉仕することを通して、
青少年と共に聖性の道を歩みながら、
神の栄光のために生きることを誓う。」
これは、わたしたちが共に歩みたいと願う聖性への道です。扶助者聖マリアが、出会う人々、とりわけ困難の中にある人々に対して、人間らしい温かさをもって応えることで、希望のともしびとなるよう、わたしたちを助けてくださいますように。とりわけこの時、戦争やさまざまな暴力、そして受け入れがたい不正のゆえに苦しんでいる子どもたち、若者、家庭のために、祈りと日々のささげものをもって寄り添いたいと思います。
教会と人類の母であるマリアに、福音の真理への愛と勇気をもって全人類のために平和を呼びかけておられる教皇レオ十四世をおゆだねいたします。困難な時代の聖母が彼を支え、慰め、この時代にあって、今もなお、「平和を実現する人々は、幸いである」とわたしたちに語っておられるイエスを告げ知らせる忠実な使者である喜びをお与えくださいますように。
あなたがたの日々の生活の中で復活の喜びを生き、それを周りの人びとに広げていかれますように願っております。
ローマ 2026年4月24日
皆さんを愛するマードレ