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目を開いた神秘家

No.1029

 

目を開いた神秘家

 愛する姉妹の皆様

 ここ数日、わたしたちは総評議会の集会で忙しくしており、各管区で皆さんが取り組んでいらっしゃる多くの課題について話し合っています。また、皆さんとともに体験した視察訪問や出会いの豊かさを、感謝の念に支えられともに分かち合っています。それは、確かにわたしたちが交わりと、現代にあって、いのちを生み出すサレジアン・シスターズである喜びを分かち合い助け合う恵みの時となりました。訪問に向けての細やかな配慮、受け入れと準備、そして深い信頼を伴う開かれた歓待と、視察担当評議員、各部門評議員、そしてわたしにまでお寄せくださった堅い帰属意識に感謝いたします。

 6月の典礼は、キリストの聖体とイエスの聖心を祝うようにわたしたちを招いています。聖心は、人類に対する神の限りない愛と、わたしたちの人生におけるイエスを中心とする喜びをわたしたちに提案することから、その聖心にいつまでもつながっているようにと、何度も何度も示されたマードレ・マザレロの確信に満ちた勧めをわたしたちに思い起こさせてくれます。「イエス様のみ心の中に、あなたを置いていきましょう」 (手紙 50.4) 。「イエス様のみ心の中で語り合いましょうね。」「わたしたちは毎日イエス様のみ心の中で会えます」(L 42.1)と。

 このような典礼的雰囲気の中で、前回のチルコラーレに続いて、わたしたちの祈りのスタイルについての考察を皆さんと分かち合いたいと思います。

 2022年6月29日付で出された神の民の典礼上の養成に関する使徒的書簡 「Desiderio desideravi」の中で、教皇フランシスコは、キリストとの真の出会いの可能性をわたしたちにも与えるその出会いの場である祈りの現実、とりわけ典礼の中に入るよう招いておられます(使徒的書簡第10項参照)。

 ここに、祈りの力強い美しさのすべてがある、と教皇は述べています。

 この手紙は、サレジアン・シスターとしてのわたしたちのアイデンティティの中心的な側面である祈りについて、わたしたちを教育してくれます。したがって、わたしたちのうちで祈ってくださる聖霊のため、賛美と礼拝と感謝をもって、意識的に場を設けることは、わたしたちを聖霊によって、聖霊と共に、聖霊のうちに交わりを保ち、友愛を強め、時の展開において働き、使命に福音的な効果を与えるダイナミックで実り豊かな力を獲得することになります。

 教会が霊的な世俗性の誘惑に打ち勝ち、教会に宿り、教会を活気づけてくださる聖霊に自らを開くことができるのは、聖霊との出会いにおいてのみです。

いのちの息吹

ベネディクト16世は「信仰年」開年ミサ説教の中で、現代に蔓延する空虚感、明らかな倦怠感、すなわち神のいない生活、世界を示すために、霊的な「砂漠化」について語られました。

わたしたちも時々、数知れない興味や活動の中に自身を見失い、情報やイメージの洪水に飲み込まれて、内的生活の自由と深さを弱めるような代用品で、わたしたちの心に宿る無限のものへの生来の渇きを麻痺させてしまう危険を冒すことがあります。また、キリスト者としての生活と修道召命の美しさを味わい、神の愛に 「留まる 」こと、そして神の父である心の鼓動を感じることに難しさを体験することもあるでしょう。

わたしたちはこの現代社会の荒れ野において、主が常に慈しみ深く先を見越し、今日も不足することなく用意してくださっているいのちと恵みの種を発見し、守り、世話し、育てるよう招かれています。わたしたちは、希望を実らせるエネルギーを再び燃え立たせるよう呼ばれています。「それがしばしば暗黙のうちに、消極的な形で示されているとしても、現代世界の中には、神への渇き、人生の究極的な意味への渇きを表す多くのしるしがあります。

「荒れ野においては何よりも信仰の人が必要です。信仰の人は、自らの生き方によって約束の地に向かう道を示し、希望を生き生きと保つからです。生きた信仰は、心を神へと開きます。そして神の恵みは人を悲観主義から解放してくれます。今日、これまでにもまして、福音宣教を行うとは、神によって造り変えられた新しい生き方をあかしし、そこから道を示すことです。」(ベネディクト16世 2012年10月11日ミサ説教)

神の約束はわたしたちの信頼のすべてです。「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませる」(イザヤ書43,20)のです。

恵みと召命によって、わたしたちは、荒れ野を水の湧き出る場に変える神の救いのみ業に協力するよう招かれています。それは、わたしたちの青少年のうちに真の喜びを鼓吹し、自己の存在そのもののうちに現存される神の神秘を発見できるよう、彼らの善のための祈りと全面的な献身による生き生きとした力を通して助けることが(C69参照)求められています。

一部の現代作家が語る「一瞬の神秘体験」は、まさに、いのちの主である神との深い出会いの中で、人間に関わるすべてことを統一する必要性から生じます。それは、今この瞬間を生きること、しかも愛のうちに生きること、すなわち個人として、そして共同体として、今この瞬間が持っているすべての豊かさと預言的な力を掴みながら。

したがって、一日の中で神に心を開く瞬間を見つけることが重要であり、何よりも、祈りは魂の息吹ですから、日々の生活を祈りで蓄積することが大切です。偉大な霊的教師たちは、祈りがなければ人は生きることも、成長することも、イエスに従って成熟することもできないと教えています。祈りとは愛の対話であり、出会いであり、無限の探求であり、わたしたちに宿る神秘の観想です。この神秘に向かってアウグスティヌスは叫んでいます。

「あなたはわたしを呼び、さらに声高く叫び、聞こえなかったわたしの耳を貫いてくださいました。ほのかに光り、さらにまぶしく輝いて、見えなかったわたしの目の闇を払ってくださいました。わたしはあなたの良い香りを吸い、わたしの心はあなたを求めてあえぎます。あなたのよい味を味わい、わたしの心はあなたを求めて飢え渇きます。あなたはわたしに触れてくださったので、あなたの平和を求めてわたしの心は燃えています」(アウグスティヌス『告白』X、27.38『毎日の読書』より)と。

教会の教令文書や、キリスト教的、宗教的な経験において、祈りの主題は堅忍と忠実の関連を有しています。奉献された人が守るよう招かれている主な堅忍は、忠実の恵みを懇願することです。(奉献・使徒的生活会のための指針「忠実の恵み・堅忍の喜び」2020年2月2日、39号)

わたしたちの生活は、会憲で「単純、本質的で、日常生活に深い影響を及ぼすもの」(会憲38条)と示されているように、祈りへの忠実さによって、絶えず唯一の重心に戻されなければなりません。

 

単純で本質的な祈り

 稀に見られることですが、単純と言う言葉を平凡さや簡素、行き過ぎた素朴さと結びつけてしまうことがありますので、用語の概念を明確にすることが重要であるようにわたしには思われます。単純とは、本質的なことへと戻らせることで、霊的生活の特性を指すものです。社会が複雑になればなるほど、本質へ戻ること、単純さへ帰る必要性がますます感じられます。

 日常生活において、わたしたちは単純化するよりも複雑化する方が容易であることを経験します。単純化は修徳的な歩みを前提としていますが、ヨハネによる福音の用語で言えば、「刈り込み」と定義できるでしょう。単純になるためには、多くの無駄なもの、二次的なものを刈り込む必要があります。単純さは、霊的な円熟を特徴づける徳の一つです。

 

 単純で本質的な祈りは、上記の意味で、わたしたちが耳を傾け、主との対話を直接的で、集中的なものにし、わたしたちの全存在を信仰と愛の中に巻き込むことができるようにします。使徒的使命に献身し、共同体=交わりを築くよう尽力するわたしたちにとって、祈りの態度は根本的なことです。それはわたしたちを現実から遠ざけるものではありません。なぜなら、それはわたしたちがキリストのエネルギーを吸収することができるようにし、イエスにおいて、わたしたちの日々の存在と行動をますます福音的に一貫したものにするからです。ここに、神との交わり、一致の恵みの推進力の中心があります。

 会憲は次のように述べています。「わたしたちの祈りは、神と隣人に対する愛、というただ一つの動きのうちに表れる。この祈りは、モルネーゼの家を満たしていた信仰と、絶えず自己を与えようとする、あの福音的雰囲気を共同体の中に要求するとともに、それをつくりだしていく。この祈りは、父である神の愛に信頼して、そのみ前に生きるように導く」(会憲38条)。

 わたしたちの祈りのスタイルは、ドン・ボスコの霊性を反映したものであり、最初から可能な限りすべての人に示された地平を目指しています。

 それは、神の現存、絶えず神のご意志に全面的に従って生きる人生です。

 ドン ボスコにとって、祈りの精神とは神の現存への信仰であり、イエスの「愛のうちに留まる」こと、イエスはわたしたちを見捨てることはないという確信です。「祈りの精神」という表現で、ドン ボスコは神に向かう心の態度を意味しています。つまり、祈りの形式や信心業にまとめられる姿勢ではありません。

  扶助者聖母会 会憲の初版で、祈りの精神について述べたとき、ドン・ボスコは、聖アンナ修道女会の会則に書かれている「いつも神のみ前に留まるように」という言葉を残していたことは興味深いことです。

 1878年に印刷されたテキストでは、このことばは削除されています。おそらく、姉妹たちがそれをよく理解できず、何よりも生きることができないことに気づいていたのではないでしょう。

 1877年2月、彼はアラッシオの共同体を訪れ、病気の姉妹たちに挨拶した後、どんなことについて話して欲しいかと尋ねました。その答えがクロニストリアを通して分かります。

 「いつも忙しくて、会憲が述べているように、常に神のみ前にいることがまだできないわたしたちは、ほとんど異口同音に答えました。『いつも神のみ前にいることについて!』 すると、やさしい父はおっしゃいました。『扶助者聖母会員が、常に神のみ前にいることができたら本当に素晴らしいことですね。しかし、娘たちよ、こうすることができます。仕事が変わるたびに、すべてを神のより大いなる栄光のためにするという意向を新たにすることです。このように、神との絶え間ない一致の習慣を身につけるのは、難しいことではありません』。」(クロニストリア2307頁)

 こうして彼は、神との絶え間ない交わりは、意向の正しさ、愛の純粋さ、神のためだけに行動することによってもたらされるということを姉妹たちが理解できるよう助けたのです。

 マードレ マザレロはしばしば、厳しくて苦労の多い仕事に疲れ果てている宣教女たちに次のような手紙を書いていました。「神様と一つになる心を、出来る限り保ちつづけるのです。絶えず神様とともに生きていてください」(手紙23,3)と。

 この「出来る限り」という言葉は、人間の限界をよく理解しながら、神との習慣的な一致を目指す姉妹たちを、現実性のあるタッチで助けたマードレ マザレロの繊細な心遣いを表しています。祈りは勇気の源であるので、熱心に祈るよう勧めました。

 「たくさんお祈りなさい。祈りによって、あなたの仕事をやりとげるための力が与えられるのです」(手紙 47.9)。

 その一方で、永遠への展望を思い起こしていました。

 「いつも心で祈りなさい。祈りは天国の宝を開ける鍵であることを、おぼえていらっしゃい」(手紙 51.11)。  

 彼女は、祈りに対する堅忍が忠誠を支えることを確信していました。

 「いつも祈りなさい。祈りはあなた方が手にしていなければならない武器です。あなたをすべての敵から守り、あなたが必要なときいつもあなたを助けてくれるでしょう」(手紙 66.5)。

 マードレ マザレロと最初の共同体にとって、祈りはいのちの息吹でした。確かに彼女は神秘神学について話しているのではありません。

 しかし、その心の単純さは、彼女が主を体験していることを表していました。ですから、人間に関わることは、彼女にとって何一つ無関係なことではありませんでした。その霊性は、訓戒するような語調ではありませんでした。彼女は、人間の中には善と弱さへの傾き、神の愛に答えたいという緊張感と人間としての現状の脆さに対応するための緊張感が、共存していることに気づいていました。

 マードレ マザレロにとって、祈りにおける堅忍は、心の祈りとして可能なのです。仕事のリズムに合わせ、仕事に意味を与え、永遠の光りで照らします。彼女は何にもまして愛されている神との出会い、そして彼女に委ねられた人々との出会いの中で、日常の神秘を生きていました。彼女の単純で堅固な信仰は、モルネーゼの最初のシスターたちの信仰と同じように、日々の労苦の中にあっても、神への賛美を「永遠のもの」にしていました。

 決して衰えることないキリストのうちにあるいのちへの熱意が、彼女たちの中にはありました。「わたしたちの中にも、絶えず燃え、何ものも消すことのできない神聖な火がなければなりません」(教皇フランシスコ、一般謁見2021年6月9日)。それはまた、モルネーゼのように、また、本会のこの150年のいのちと聖性のように、わたしたちも絶えずその存在のうちにいることを可能にしてくれます。これは、わたしたち一人ひとりの中、そして教育共同体の中で守ってくださることを聖母マリアにお願いする愛の霊の火のことです。

 最初の会憲の中でドン ボスコによって描かれた扶助者聖母会員像には、「会員たちの中には、活動生活と観想生活が同じ歩調で進んでいき、マルタとマリア、および 使徒たちと天使たちの生き方が写し出されなければならい」(会憲 1885 XIII: Virtù essenziali proposte allo studio delle Novizie e alla pratica delle Professe)と書かれています。

 「一致の恵み」はサレジオの精神、モルネーゼの精神の中心的な側面です。

 観想的な生活と活動的な生活は、相反するものではなく、調和するものとみなされます。なぜなら、扶助者聖母会員の第一の特徴となる徳として語られている 「忍耐強く熱意に燃える愛徳」は、この生活の統合からのみ生まれてくるものです。

 これは聖フランシスコ・サレジオの人間学的、神学的統合でもあります。

 神はわたしたちをご自分の似姿として、愛のうちに、愛のために創造されました。そこから、この愛を単純に受け入れ、それを十分に表現することを先行させる姿勢が生じます。

 愛の体験は霊的な体験の統一原則であり、わたしたちの教育使命のスタイルでもあります。

 祈りは、神の心そのものに波長を合わせ、神が心にかけておられることに心を配ることにほかなりません。神と歴史に向かって同時にアンテナを張る必要があります。神との深い合意と、世界に対する賢明な理解は、わたしたちの教育活動を効果的なものにし、青少年や現代社会の人々の様々な貧困について開かれた目を持つ神秘家にしてくれます。

 

いくつかの不可欠な条件

 愛する姉妹の皆さん、もしわたしたちが本当に「一致の恵み」を体験したいと望むなら、いくつかの不可欠な条件を作り出すよう努めましょう。会憲は明確な指針です。「『耳を傾けるおとめ』マリアに倣って、全存在の沈黙のうちに、キリストの似姿になるように、わたしたちを徐々に導き、兄弟的交わりを強め、使徒的熱意を燃え立たせてくださる聖霊の力に自己をゆだねる」(会憲 39)のです。

 沈黙は、生活と関わりのある祈りであるため、信仰と生活の統合のために不可欠です。耳を傾けるために心の準備をし、自分自身の奥底にある、みことばを歓び迎え、これを内面化することを妨げる、あるいは、それを助ける心の動きを読み取るのに役立ちます。それは、真の回心という観点から、神のみことばと誠実に向き合うことを容易にします。それによって、わたしたちに内在する考えと、また必ずしも神に向けられ、神の霊によって導かれたものではない思考を冷静に分析することができます。

 もう一つの不可欠な条件は信仰です。イエスはわたしたちにこう言われます。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ 11章24節)。

 謙遜もまた、祈りの前提条件です。この言葉自体には、自らを低くし、困窮していると認識し、神ご自身以外に確かな拠り所を持たない人々の不安定さを示すために使われる言葉と同じ語源を含んでいます。謙虚で粘り強い信仰によって、わたしたちの聖人たちは本当の奇跡を見ることができました。

 聖体と和解の秘跡に基づいたサレジオ霊性の秘跡的次元は、霊的生活と教育使命の基盤となっています。「わたしたちの祈りの源泉および頂点は、過越のいけにえである感謝の祭儀である。そこから教会の全生命がわき出る」(会憲 40)。本物の聖体的な生活は、共同体を変容させ、刷新し、わたしたちを一つに結び、イエスと同化させ、イエスのように、わたしたちの兄弟姉妹、特に青少年のために裂かれたパンとなるまでにします。それは家族的精神をよみがえらせ、支え、慈愛と忍耐と剛毅を備えた心を与えてくれます。

 「ゆるしの秘跡は、おん父の忠実さと憐れみとの信頼に満ちた出会いである。それはキリストの死と復活の神秘にわたしたちを新たに参与させ、教会の中で兄弟たちとの和解をもたらす。また、自分たちの貧しさをおだやかに受け入れ、罪からの解放に向かって歩むように助ける」(会憲 41) のです。

 回心についての個人的、共同体的な自覚がなければ、観想的な次元はありえません。

  それは、一方でわたしたちに平和を与え、他の人たちを卑しめることなく、異なる和解の道を歩み始めるかどうかということです。それどころか、その人たちにも同じプロセスに加わっていると感じられるようにします。もし神の無限の慈愛と憐れみ、すべての人間に対する神の同情を信じるなら、わたしたちは人生を新たにし、変える恵みを経験することができるのです。

 親愛なる姉妹の皆さん、祈りの中で、神の恵みはわたしたちを変え、状況や人々に対する見方を変えてくださいます。それはわたしたちが神ご自身の目で現実を見るように助けられます。祈りと修徳は、わたしたちを喜びの中に生きる者とし、自分自身を支配し、共同体の中で側近く生活している人に対して、希望と真の友情を与えることができるよう自己コントロールするために、必要なエネルギーです(会憲15参照)。こうして、観想的な行動をとることで、わたしたちは皆、「世に救い主をもたらした神の母おとめ」(会憲 17)であるマリアの助けによって、青少年の間で神のしるしとなり、神の愛を告げ知らせる、開かれた「宣教共同体」となることができます。

 不安や困難の時には、聖アウグスティヌスの言葉を思い出しましょう。

 「あなたはわたしたちをご自分のために造られました。主よ、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで安らぐことはありません。」(聖アウグスティヌス『告白』I、1)

 今日、6月24日のドン ボスコの霊名日を思い起こしながら、わたしたちはサレジオ家族と心を合わせて共に、総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父様への感謝を表し、年に一度のこの祭日を交わりのうちに過ごしましょう。

 ドン・ボスコのように、彼もわたしたちを、わたしたちの生活の神秘的な次元、すなわち世界のあらゆる場所で使徒的な効果の秘訣を発見するために、これまで以上に真の意欲へと導いてくださいます。わたしたちはアンヘル神父様を扶助者聖マリアに委ね、その使命がますます実りゆたかなものとなり、教会とサレジオ家族のために新たな召命が芽生えるよう願いましょう。

 使徒聖ペトロとパウロの祭日を祝う今月、教皇フランシスコのために祈りを強め、教皇様が知恵と愛をもって教会を導き続けることができるよう、彼の健康と力を祈り求めましょう。

 親愛をこめて皆様にご挨拶し、何よりも危機的な状況や特別な困難の中にある共同体とサレジアン・シスターの皆様のために、わたしと総評議会の姉妹たちの祈りをお約束します。とりわけ、道、真理、いのちであるイエスを宣べ伝え、最も弱く、忘れ去られた人々に心を留めるという使命をわたしたちと共有している多くの青少年の皆さんに感謝いたします。だれもが幸せであり、希望のうちに未来を見つめる権利を持っていらっしゃるのですから。

 

ローマ 2023年6月24日

皆様を愛するマードレ