シスター 中島ユリ子 マリア |
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帰天年月日 |
2024年9月23日 |
場所 |
東京都 |
修道生活 |
65年間の修道生活 |
略伝 |
シスター中島ユリ子 マリアは、1934年6月12日、長崎県竹之久保町(たけのくぼまち)で、父 勝海(かつみ)、母 シズエの4人兄弟姉妹の次女として誕生し、2日後に洗礼を受け、マリアの霊名をいただきました。 「父母は素朴な信仰を言葉と行い、祈りをもってわたしたちを育ててくれました。朝起きると皆で朝の祈りとロザリオ1本、就寝前には皆揃って夕の祈りを唱える習慣がありました。」と書いています。 また、一緒に生活したおばあ様については、「祖母は経済を支えるために日中は仕事に出かけ、貧しい人に対しては乏しい中から、物をもらいに来る人に対しては施しをしていました。聖母祭が近づくと、生垣のバラの花を全部切り取って聖母の騎士の修道士さんに渡し、食糧難の戦時中には昼食を与えるのが毎年の恒例となっていました。」と記録しています。 シスター中島は、11歳の頃、長崎での原爆投下によって被爆しました。「1945年8月9日、長崎の原爆投下の2日前の夜、母の実家に疎開し、原爆による爆死を免れたことは、聖母を通して神の恵みとして感謝しています。」と。被爆したことによって、健康面での十字架を受けることになったのですが、シスター中島はそれを嘆くことなく捧げていまました。 1950年、別府聖心の修道院に志願者として入会。召命のきっかけについては、宗教書をたくさん読み、特に『小さき花の聖テレジア自叙伝』から「わたしはあなたをお愛しいたします。そしてわたしの一生をあなたにささげ致します。」という言葉に強く感動したこと、また、2つ3つの修道会から入会を勧められたが、母親のいとこであったシスター山田カズ子といとこのシスター山田幸子が入っていたサレジアンシスターズを選びました。 また志願期に、聖心女子大学で勉強をし、その時に同期生であった正田美智子様(皇太后美智子様)との出会いはシスター中島にとって生涯の誇りであり、将来、この方が皇后様になられるなら、わたしは神であるキリストの花嫁になりたいという強い望みをいただくことになった、ということも確信をもって語っておられます。 1957年1月、ポストラート、同年8月に修練期を始め、1959年8月5日に初誓願を立てました。1960年4月から12年間、世田谷の目黒星美学園中学高等学校(現在のサレジアン国際学園世田谷中学高等学校)で教師として青少年と共に生き、1972年から2年間、修練者のアシステンテとして若い召命のために奉仕しました。1974年4月から13年間、別府聖心修道院で、院長、そして学校法人明星学園理事長、幼稚園園長、そして8年間、明星学園中学高等学校校長として使命を果たしました。その後、1年間は再び調布 聖心修道院で副院長を務め、1988年からは赤羽の扶助者聖マリア修道院に異動して、翌年から星美学園幼稚園の園長として奉仕しました。幼稚園での使命を終えたあと、調布の扶助者聖マリア修道院に異動して、院長として調布星美幼稚園の子どもたち、先生方、保護者の方々と接することを喜び、そしてサレジアニ・コーペアラトーリの支部デレガータとして協力者会員の皆さまと共にサレジオ精神を深める恵みの時をもちました。2004年から4年間世田谷の幼き聖マリア修道院の副院長として姉妹たちへの奉仕を生き、目黒星美学園中高の同窓会のデレガータとして同窓生たちとのつながりを大事にしながら、若者たちのための使命を生きました。長い年月、特に教育の分野での奉仕を終えて、2008年から調布聖ヨゼフ修道院に異動して、静養の生活に入りました。それからも、サレジアーニ・コオペラトーリや同窓生やその保護者の方々など、幅広い人との関わりは続き、講話、カトリック要理、などを通して、たくさんの方に神様に向かう心、教育者としての温かいまなざしで子どもたち、若者たちを愛する心を伝えることを喜んでなさっていたようです。 関節リュウマチによって痛みや苦痛を感じ、だんだんと思うように動かなくなっていく身体の状態を受けとめ、介護に当たってくださる方に感謝しながら、それでも共同体と共に祈り、食事をし、楽しく過ごしていました。 8月中旬にコロナに感染し、入院することになり、元気になって帰ってくることを皆が待っていましたが、食欲がなくなり、起き上がる力もなくなったようです。点滴を受けながら治療を受け、ベトレヘムの園病院に転院して療養する予定になったその矢先に、神様は先にシスター中島をご自分のもとにお呼びになりました。 同じ共同体で生活し、一緒に働いたことのあるシスターの中に残っているシスター中島の印象的な姿として共通しているのは、優しく、いつも変わらない穏やかな笑顔で迎えてくれること、お話が好きで、でもそれはお話し好きではなくて、本当に上手に教育者としてのまなざし、視点を大事にしておられたこと、観察力が素晴らしくて、人をゆったりとじっくりと穏やかに見て関わる姿、何を頼んでも「出来ることなら…」といつも快く応じてくれたことなどがあげられます。 幼稚園の園長時代、「保護者に出す手紙の書き方、子どもたちへの教育的な配慮の仕方、保護者との対応についてなど、若い先生たちにも尊敬を持って丁寧に指導してくださいました。 ユーモアがあり、私たちのほんの小さなことにも声をたてて笑ってくださり、園長先生のちょっと高度なツッコミどころ満載のジョークで職員室は笑いに包まれることが多かったです。幼稚園のお母さんたちに向けての教育講話には毎回たくさんの方が参加し、卒園してからも繋がっている方が多かったです。人々に信頼される人格者でした。」と共に働いた姉妹は語っています。 また、目黒星美学園の草分け時代の話が思い出に残っているという姉妹もいます。その話によると、「第一期生を大学受験に出すときには本当に緊張した。自分たちの教育がどうだったのか、という一つの評価だと考えていましたから。本当に身の縮まる思いで待って、いよいよ結果が届いた時には、軒並み、素晴らしいもので、本当に手を取り合って喜び合い、私たちは自信をもって前進していこうと励まし合ったそうです。」 主が与えた十字架を静かに受けとめ、最後までサレジアーナとしての喜び、教育使命に召された者としての自覚と聖性への憧れをしっかりともって生きてこられたSr中島のような、主への愛を生きる召命を私たちの管区に送ってくださるよう、主に熱烈に取り次いでくださるよう皆様のお祈りをお願いいたします。 |