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2025年3号 アリアンナの糸 もろさを愛する?

アリアンナの糸

もろさを愛する?

Maria Rossi, FMA

 「彼はもろさを恐れず、私にそれを愛することを教えてくれました」。これは日刊紙『アヴェニーレ』に掲載された記事のタイトルです。29歳の若い女性が書いたもので、彼女が教皇フランシスコと出会った体験を語っています。 彼女は、当時は学生でしたが、現在はジャーナリストとして活動しています。障がいを受け入れることから始まったその歩みが、彼女に自分の計画を実現させる力を与えました。信仰に照らされた温かな受け入れの体験を通して、彼女は自分の障がい、「もろさ」を愛することを学び、その意味をより深く感じ取り、人生に安らぎをもたらすことができたのです。このような実りは、家族のあたたかい受け入れの姿勢にも大きく支えられています。 記事に掲載された写真には、教皇との出会いの場面が映されており、車いすに座る筆者の背後には父親の姿があります。もろさは人間存在の一側面ですが、それがすべてではありません。

 世界中の多くの女性や男性が、困難な状況に直面したときに、それを受け入れつつも決意をもって立ち向かってきた物語は、もろさを超えて、人間が予想を超える資源や能力を備えていることを示しています。その素晴らしい証しのひとつが、最近28歳で亡くなったサミー・バッソの人生です。彼は信仰を持つ生物学者であり科学者でしたが、早老症という非常に稀な遺伝性疾患により若くして老化が進んでいきました。彼は信仰の助けを得て、自分の病気をただ受け入れるだけでなく、それを「愛する」ことさえし、それを自らの召命として生き、他者のために研究に身をささげました。

 そしてまた、控えめに言えば、私たち自身のもろさの経験を振り返ってみることもできるでしょう。
もろさの限界を受け入れることは、たとえそれが深刻でない場合でも、個人的にも社会的にも少なからぬ困難を乗り越えることを求めます。限界に気づいたときに襲ってくる戸惑いや恐れに加えて、人々は「急ぐこと」「効率」「万能感」が支配する社会環境からの圧力にも直面します。社会的な圧力は、真のもろさを受け入れることを難しくするだけでなく、時間・体力・年齢というごく普通の制限までも「弱さ」としてみなしてしまう傾向があります。
 そうした問題を重くし、拡大させる圧力がある一方で、それを乗り越えるための手段がないわけでもありません。その主なものは希望です。希望は「欠けている何か」に直面することで芽生えます。心を開き、それを満たすための手段を探し求める力となります。希望は信頼と並んでいます。それは生きるうえで欠かせない力であり、あらゆる状況・あらゆる年代において支えとなるものです。
 教育の場においても希望は役立ちます。成長の過程で誰もが直面するごく普通の困難であっても、それに伴う恐れ、不安感、劣等感を乗り越える手助けとなるのです。希望はまた、困難を取り除こうとするあまりに過保護になり、本人に代わって行動してしまうこと、市場にあふれるものを過剰に与えること、あるいは安易に医療に頼ることを避けさせます。


 希望は、人の中にある資源を信じ、それを信頼をもって感じさせるよう促します。信頼を持つ人は、他人の代わりを務めたり、問題を取り除くために無駄な手段を探したりはしません。むしろ困難を正しく評価したうえで、試行錯誤のための時間を与え、失敗することさえ許します。失敗を敗北と見なさなければ、それは有益な経験となり得ます。個人の成長において、困難を克服したという自覚は、新たな課題に立ち向かうための信頼と希望を強めます。若者や思春期の子どもたちと共に過ごした人なら、重大な困難を経験しそれを乗り越えた者と、過度に容易にされ、あまりにも多くを与えられてきた者との間にある人間的深みの大きな違いを実感したことでしょう。
 日常生活においても、時間や体力といった普通の限界を受け入れるのは容易ではありません。その拒否の一形態が、薬や向精神薬の乱用、すなわちドーピングです。これはスポーツ界で起こることですが、日常生活においても睡眠薬や解熱鎮痛剤などの常用として見られます。希望は、体の自然な防御力を信頼し、性急さや過剰な成果への不安を抑えることで、痛みが和らぐのを待ち、眠りが訪れるのを待つことを可能にします。それは身体的にも経済的にも大きな利点をもたらすのです。


 もろさを受け入れるうえで大きな困難のひとつは、加齢に伴うものです。社会的な軽視や無視、病気や自立の制限、死への恐れに直面する時、希望は不可欠です。信仰と結びついた希望は、すべてを包み込み、愛をもって完成へと導く神秘への特別な信頼を与えます。信仰に基づく信頼は、苦しみや限界を意味あるものとして受け入れることを助け、長い経験と残された資源を良い形で生かし、社会に対して開かれた存在であり続けることを可能にします。祈りにおいては、それは静かな委託となり、感謝の賛歌となります。
 最近では、もろさに加えて、創造的人工知能(AI)の莫大な可能性をどう管理するかも深刻な懸念となっています。制御不能になるのではという広範な、そして正当な恐れや、その媒介となる道具の使い方への不安が、多くの研究者に有用な手段を模索させています。すでにAIへの依存や(身体的・精神的)健康、さらには社会性への害、とりわけ若者に関する予防や治療に関する研究が進められています。
希望は大きな賜物です。これを実りあるものとするためには、現在の競争的な風潮の中にあっても、しっかりとした養成が求められます。自らの体験や、過去および現在を生きる人々の物語に加えて、さまざまな学問が提供してくれる貢献も大きな助けとなります。
 書籍や雑誌、社説や新聞の特集記事、講演や討論会、さらにはインターネット上で得られるものの中に、適切で示唆に富んだ考察を見いだすことができます。特に重要なのはポジティブ心理学の貢献です。これは困難を乗り越えるために、すでに存在する資源を強化することに力点を置いています。
そして、マインドフルネスや瞑想、コンパッション(苦痛への理解と支援を伴う慈しみ)と組み合わせることで、「逆境を通して成長を促す」ことが可能であることを示しています。


 知識の拡充は、健全な常識と結びついて、慎重で賢明な批判的精神の形成に寄与します。これは容易に身につけられる姿勢ではありませんが、可能なことです。それは、不足している事実だけにとらわれず、環境からの圧力に支配されないよう促し、自分自身と他者の能力・資源を見出し、互いに信頼を与え合うことを助けます。また、必要なものと無益あるいは有害なものを見分けることを容易にします。慎重で賢明な批判的精神を自ら育み、また他者にも育てることは、限界や弱さを抱えつつも、数多くの魅力的で興味深い選択肢の中を進みながら、本当に大切なものに目を向けていくために必要な道や手段を備えることを意味します。
 人間的な養成によって力を与えられた希望は、信仰においてその充実を見いだします。信仰は、人間の限られた視野を広げ、見かけ上重要に見えても実際にはそうでないものを相対化し、人生の意味を照らし出し、人生を無意味さや社会的劣等感という重苦しい重荷から解放します。祈りのうちに信仰を生きることは、弱さ、もろさを受け入れ、それを「愛する」ことを可能にし、人生はそれでもなお生きるに値するものであると感じさせてくれる 極め尽くせないお方に信頼に満ちた心でゆだねることを可能にします。