特 集
希望を奪われないように!
Aurora Consolini, FMA
「希望を奪われないように」は2013年聖木曜日にローマの少年刑務所を訪れた教皇フランシスコが私たちの青年たちに向けた招きだ。そう、彼らはまさしく「私たちの」青年たちなのだ。彼らはローマの未成年者の刑務所に収容されている。彼らが「私たちの」青年なのは、「貧しく、見捨てられ、揺らいで」いるから。ドン・ボスコは彼らのために献身しただけでなく、生涯を捧げたのだ。ドン・ボスコのいのちを救ったのは彼らだったので、感謝を込めて自らこう言った。「これから先、私の生涯を君たちのために使い尽くそう」。そしてまさしく彼は貧しい若者たちのために、亡くなるまで「身をすり減らした」。
そのような若者たちはドン・ボスコの人生に希望を与えることができた。そして、しばしば若者たちは私の人生にも希望を与えてくれる。困難に打ちのめされたり、祈ろうという思いが薄れたり、日常の疲労が私を務めから引き離そうとしたりする時にだ。同時に、しかしまた希望は彼らにとっても最も必要とするものなのだ。だから、教皇フランシスコは希望を決して奪われないようにと若者たちに語りかけたのだ。
◆誰が希望を奪うのか
ところで若者たちの希望を奪う泥棒は誰なのか。時にはまさしく家族がそうで、子どもたちが自由に飛び回るのを許さず、小さい時から非行活動に追いやる。わずか16歳の少年囚Fは話す。「僕はお母さんに強盗のやり方を教わった。ひとりで盗みに行くようになると、お母さんがそのお金を取った。だけど、僕がここに入ってから、手紙1通も送ってくれない」。15歳の少女囚Jは母親がいることの意味がわからないと言い切る。彼女はたった12歳の時に、イタリアで娼婦をするよう母に売り飛ばされたのだ。
時には希望を奪い取るのは友人だ。少年たちは人生を歩む途中で彼らに出会い、「欺かれる」までは「兄弟」だと思い込んでいる。
さらに「最も鍛え抜かれた希望の泥棒」は孤独だ。マザー・テレサは最も大きな貧困は物質的なものではなく、無関心と孤独だと強調していた。私たちの少年たちにとってもその通りだ。15歳の少年囚Rはある時私にこう言った。「僕たちは死を恐れてはいない。薬をやりながら、ローマの環状線を時速300キロでぶっ飛ばす。僕たちは生きるのがこわい。生きていてひとりぼっちになるのがこわいんだ」。そしてさらに書いている。「僕の人生で母親も父親もいないで成長するのは普通のことだ。一日中路上にいるのが普通だ。誰からも愛されていないのが当たり前だ」。ある日、慈しみ深い御父についての教理のクラスの時、ナポリのスカンピア出身の少年囚Iは4年以上刑務所に入っているRに言葉をかけた。「もし僕たちがお父さんに抱きしめてもらったことがあれば、ここには来なかっただろうね」。
強靭で信用できない最後の泥棒は自分自身に対する軽蔑だ。私たちの少年たちはじぶんのことが好きではないか、自分を大事にし、自分の誤りを許すことに懸命でない。Iは書いている。「時々僕たちは間違い続けている。自分自身を許すことができないんだ。傲慢さが勝つたびに、負けるのは僕たちだ」。
◆希望の裁き人
こうした希望の泥棒と一緒に希望の裁き人もいる。教皇フランシスコはそうした人々も呼び寄せるように私たちに求めた。私たちの少年たちが心の中にもっているのは願いだ。彼らは信頼と誠実さに裏付けられた正当な人間関係を望んでいる。重い罪で長い間刑務所にいたDは出所するさいに書いた。「皆さんは本当の友人の姿を見せてくれました。僕が一時期友だと思い込んでいた人たちより、ずっとよい友人でした。彼らとは違うということをわからせてくれました。皆さんは態度に裏表がないし、嘘をつかないし、慈しみの気持ちを持っている」。そして身を寄せた所での失敗の後刑務所に戻った少年Mは「僕のことでも大事に思ってくれる誰かがいるって感じるのはどんなにすばらしいことだったか。これまでの人生で佳いことなんてほとんどなかった。少しは僕のせいだけど、悪い仲間たちもいたからね。あなたは僕のわずかなよいことの一つだよ」。うみの親からも育ての親からも棄てられた家族の暗い過去をもつD少年の言葉。「今の僕は自慢できる。2人目のお母さんを見つけたから。その人の肩に寄りかかって泣ける。あんまり口にしなくても、僕はあなたが大好きだ。イエスからのプレゼントがあるとしたら、それはあなただ。僕を助けたい、そして半分空っぽではなく半分一杯のびんを見せたいと望んでくれるあなた」。
他の希望の裁き人は、裁かずに少年たちを見守ることができる。許すことができる人たちだ。ある少年が書いている。「僕は犯罪者じゃないけれど、僕は犯罪を行う」。彼はそういうふうに見てもらいたい。ただの非行少年とは取られたくない。少年たちをこの方法で眺められる人は彼らの中にあるよいものを見つける手助けができる。私の心に残っているあるエピソードについて語りたい。ある日曜日のミサの間、私の隣にIがいた。彼はすぐに私の顔をおおっている心配事に気づいた。何があったのかどうしても知りたいと言い張るので、私は彼に打ち明けた。前日、職業訓練センターのある女子生徒が私に妊娠していることをぶちまけた。ボーイフレンドが暴力的なので、赤ちゃんを産むのがこわいのだ。この状況で、私の心は打ちひしがれていた。「私たちの」少年たちはそれを感じ取った。彼らには何でもわかるのだ!彼らはいつも誰よりも感じやすく、すぐに気づく。苦しんだことがある人は、他人の苦しみにより注意深いのだ。私はIに悩みを話した。彼はほとんど同情のしるしも見せず、ただ黙って私の話を聴いていた。ところが、ほぼ1ヶ月後、彼は私のところにやって来ると、ポケットから青い紙を取り出した。「シスター、これはあの女の子のために書きました。彼女はどうなりましたか?赤ちゃんをうむの?僕はそうして欲しい。とにかく、毎晩僕は彼女のために祈りました。上手に祈れないとわかっているけれど、神様に彼女が赤ちゃんを産むように説得してと頼んだ。そして、この手紙を書くことにしました。シスターから彼女に渡せますか」。彼の手紙は以下のようであった。「M様、僕はIです。自分のために祈ったことはないけれど、自分の家族のためには祈ります。そしてあなたのためにも祈ります。なぜなら、赤ちゃんのいのちは世界中の何よりも価値があるからです。心から祈ります。どうか、あなたが前進する強さを持てますように。苦しくても、前進する人を僕は尊敬します。僕も決して楽には生きて来ませんでした。僕は思うんだけど、誰も楽な暮らしなんてしていません。少しだけ辛い人、全然何もない人、ひどくなっている人、皆ひたする前進しなくてはならない。困難に立ち止まってはいけない。何事もなければ、僕たちは人生からほんの少ししか学ばないでしょう。あなたのように僕にも父はいません。代りになろうとした人はいたけれどうまく行かず、このことが僕の人生にとても大きな影響を与えました。成長した時、僕は家を出ました……自分に合わない無理なことをしました。急いで大人になろうとしたんです。あまりに急ぎ過ぎると、僕がそうだったように悪いことにぶつかってしてしまいます。君もそうだったでしょ?言っておくけど、そのつまずきが僕には必要だったんです。おかげで成長できました。以前は見過ごしていたこと、見ようともしなかったことも理解できるようになりました。この赤ちゃんの成長のおかげで、あなたがもっと賢明になれますように。少しずつ成長して行って、前はわからなかったことも学んで行きます。お母さんにだけ、わかることです。お願いだから、できるだけあのボーイフレンドからは離れていて。ちょうどいい時が来て、あなただそうだとわかったら、彼に会いに行っていいんだよ」。この少年のしぐさと言葉は私を面食らわせた!ドン・ボスコが言っていた「善へのとっかかり」を私は身をもって体験したのだ。
最後の希望の裁き人は、少年たちに他の可能性を与えられる人だ。重い罪で刑務所にいるある少年が書いている。「希望があって、それは明日と呼ばれている」。少年たちの誰もがそれを本気で信じて2度目の機会を与えてくれる誰かに出会えることを私は強く願っている。もう一度少年たちを信じることはいつだって難しい。彼らはしょっちゅう立ち直りに失敗する。刑務所を出ると、つねに犯罪者、役立たずと見做されるのだ。それでも彼らは少年で、変われる可能性があることを私たちは強く信じなければならない。物事は単純だということではない。大事なのは信じることだ。私たち大人が信じなければ、彼らも信じることはできないだろう。少年たちにとって、落ち込んで自分自身を信じるのをやめることは簡単だ。私たちの役目はまさにやり直しを学ぶ苦労の中で彼らを支えることだ。
◆パスタ工場「未来」
ここまでの深い真実と2013年教皇フランシスコの言葉「この少年たちのために何かしてください」から、私たちのパスタ工場は誕生した。名前は「未来」、刑務所での経験ではなく、明日への何か素敵な可能性だけを強調したかったのだ。パスタ工場はローマの少年刑務所のそばにできた。「私たちの」少年たちを自由から引き離す茶色の門からわずか徒歩2分だ。手作り乾燥パスタの製造所で、刑務所出身の少年たちにチャンスをつくることを目指している。パスタ工場「未来」は非営利団体Gustolibero (自由な味)協会によって運営されている。刑務所のチャプレンがメンバーになっているだけでなく、専門職や教育者も名を連ねている。ちょうどその時、5人の少年が雇われた。一人ひとりがけがと病気の代償、ボーナス、契約上の全特権のある正規の契約を結んだ。工場内には刑務所か少年更生施設から来た未成年者の少年約20名を抱えることができるだろう。
ところで、なぜパスタを選んだのだろう。まず、パスタは皆のテーブルにあるシンプルな製品だから。私たちの少年たちはまさしくシンプルで自主行動的、よけいなフィルターがなく正直だ。それから、パスタを製造する課程は長く、良質の材料を必要とし、用心して計量しなければならない。だから私たちの少年たちと一緒に、気をつけて愛情をもって規律正しく計量することを学ばなくてはならないのだ。「理性と愛情」とドン・ボスコなら、言うのだろう。パスタ製造のプロセスには時間と注意が必要だ。これは少年たちの人生にも言えることだ。自分本来の姿を見つけ、彼ら一人ひとりが自分の中に持っている優れた性質を改めて見出すには時間がかかる。刑務所にいる期間は少年たちが自分のことを知り、内面をよく見て、自分の誤りに責任を感じ取り、信頼できる大人の助けも借りて将来に向けての何かよいことを願えるように自分を探るべき時なのだ。パスタを作るためにするように、最後に大いに満足するには犠牲が求められる。
パスタ工場は少年たちが夢を取り戻すのを助けるための同伴の経験なのだ。刑務所を出て少年たちが仕事を見つけるのはいつでも難しい。残念ながら偏見が多い。しかし仕事場に行く前に少年たちが学んでおくべきこともたくさんある。パスタ工場には目的がある。働くこと、契約すること、大人の世界でやっていくことの意味を教えるために受刑少年に仕事を与える。この2年間で10人ほどの少年たちを雇った。そのうち数人はまだ私たちのところにいる。最終的に刑務所を出て、別の会社で働き始めた者もいる。だが、うまく行かず刑務所に戻った者もいる。
こうした経験で、私たち大人は少年たちに並んで働く。全員が同じ仕事と同じ職務を分ち合う。そうして素晴らしく家庭的な雰囲気がつくり出され、少年たちは自分自身でいられる自由を感じることができる。裁かれているのを感じないし、働く意味を容易に学べる。私たちはよく音楽、特に彼らの好きな音楽のリズムで働く。ドン・ボスコはよく言っていたではないか。「あなたたちの好きなことを少年たちにも愛してほしければ、少年たちが好きなことをあなたたちも愛しなさい」。大人たちが若者たちを正当に評価することを覚える場では、少年たちはよりよく学びとることができる。大人たちの手本を真似るだけでよいのだ。約1年私たちと一緒に働いたMは毎日刑務所から来て、仕事が終るとまた戻っていた。「このパスタ工場は僕たちのような少年たちに未来を与えてくれます。不良の少年たちはそうなりたかったわけではないんです。やむを得なかった。間違いを犯しても、そこを離れるために助けてくれる誰かや何かを見つけなければ、そのままあり続けるしかない」。この少年が言うようにパスタ工場「未来」は人格を育て、仕事をさせる機会や可能性に他ならない。罰を負う少年たちに寄り添い、非行のサークルに戻らないようにチャンスを提供する。一度外に出ても、私たちが彼らに寄り添い続け、そのデリケートな歩みにおいて彼らが孤独を感じないようにさせる経験だ。結局のところ、刑務所で守られているのは矛盾して見えるだろう。刑務所には教育者、心理学者、司祭、シスター、ボランティアがいて警察もある。しかし、少年たちが出て行ったら?彼らはよく、改めて孤独で居場所がないのを感じる。だからこの場所が身の置き場であり続けられたら?さらにパスタ工場「未来」は出会いの場でもありたい。実際、建物の内部に私たちは講義室を設けた。ローマの学校にここを開放したいのだ。学生たちと「私たちの」少年たちとの出会いは人格形成と予防教育法の経験になるかもしれないと私たちは考えた。学校から来た少年少女たちはパスタ製造の全工程を見ることができ、失敗の後で雪辱を果たそうと努力している同年齢または少し年上の少年たちと出会うことができるだろう。
◆イタリア司教協議会の秘書バトゥリ大司教は「未来」の落成式に出席し、パスタ工場を定義するために次の次の言葉を使った。「人生の目標を失った後で、ことに息苦しさを体験した後で、更生を願うこの少年たちのためにここでの経験は救命胴衣となるでしょう。彼らの人生に私たちは救命胴衣を差し出したいのです。それによって、これまで身に受けたり、選んだりしたこととは別のことができるように、肯定的な意味での家庭を感じ、家を見つけられるように、報酬を得られる真面目な仕事を通じて、社会の中で彼らの素晴らしい個性が実を結べるように。間違ってしまった少年一人ひとりの人生は、その誤りによっては捉えられず、建設的な方法で開かれてゆくべきだからです」。
私にとって大切な2人の言葉を取り上げて、締めくくることとする。教皇フランシスコが私たちの刑務所を最後に訪れたさいに贈ってくださった言葉がある。2023年聖木曜日のミサの時だった。「私たちとこの少年たちとの間に違いはありません。誰もが間違い、滑ってしまう可能性があります。罪と悪を免れている人はいません。すべての人が転ぶかもしれないのです」。教皇が私たちに語りかけたことのうち最も美しいのは、私たち一人ひとりには「罪びとである尊厳」があるということだ。滑ってしまう人々は神の子の尊厳をもっている。いつでも許してくださる神の恵みの対象である尊厳だ。カザール・デル・マルモの少年、大人、私たち皆に教皇の訪問は希望の目で他者を見つめること、心の中に大いなる夢を持つこと、私たちの弱さを恥じるのではなく、愛され許された「罪びとである尊厳」を心に感じる招きを残した。それから、Mr. Rainのある曲の歌詞だ。彼は私たちの少年たちがよく聴いているシンガーソングライター。「あなたは教えてくれた。転ぶのは生れ変わるため。人はもろくなるのを知る時、強くいられる」。とりわけ、私たち大人が一人ひとりの若者の中に生れ変われる可能性があると信じられますように。若者と一緒に彼らの夢を信じることができますように。
2013年選出されて間もなく、教皇フランシスコは聖木曜日のミサをローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で捧げることを取りやめ、あらゆる意味で辺境の地であるローマのカザール・デル・マルモ少年刑務所に赴いた。そして国籍と宗教の異なる10人の少年と2人の少女の足を洗い、その理由を説明した。「足を洗うことは、私たちが互いに助け合わなければならないことを意味します。あなたたちに仕えることは司祭として、司教としての私の務めです。心から感じる務めで私はそれを大切に思います。主が私に教えてくださったからです」。それから深い悲しみをこめて少年たちに勧めた。「希望を奪われないでください」。さらに「夢と希望の職人になることをこわがらないでください。最も美しい夢は、希望と忍耐、責任によって達成されます。急いではいけません。……たとえ間違えても、いつも勇気を取り戻してやり直すことができるでしょう。あなたから希望を奪い取る権利は誰にもないのです」。
亡くなる前、教皇フランシスコは個人口座からパスタ工場に200000ユーロの寄付をした。「ドン・ベン」ことローマ刑務所司牧責任者ベノーニ・アンバルス大司教が活動継続のために貸付金返済の必要性を伝えていたのだった。