ページのトップへ

特集 歩む、成長する、挑む。 共に。希望をもって

 

歩む、成長する、挑む。 共に。希望をもって

ドメニコ・バッタリア枢機卿(ナポリ)

「希望のうちに共に歩むこと」は具体的で共同体的な信仰を生きること、統一のとれた連帯的な共同体を築くことを意味する。そこでは、一人ひとりが他者、ことに最も弱い人々の世話をする。困難を成長と刷新の機会に変え、あらゆる分裂を超える愛を進めてゆく。しかし、一致は人間のわざではなく、謙虚さと感謝の気持ちをもって迎えるべき恵みである。交わりの歩みは小さな歩幅、差し伸べられた手と開かれた心を必要とする。連帯と歓迎の具体的な行為を通じてキリストの愛を証しするのだ。

わたしたちの共に歩みたいという願いはしばしば多くのプロジェクトや提案に置き換えられるが、その広がりはわたしたちに福音的な見方を失わせる危険がある。効率ばかり気にして、神の国を建設するために必要な簡潔さを忘れてしまうのだ。そうではなく、種の論理を思い起そう。わたしたちの課題は種をまくこと、同時に個人としてもキリスト教共同体としても王国の種となることを探し求めることだ。

 

木になる種である。自らの堂々としたさまではなく、いのちを讃える木。尊敬されること、注目を集めること、他のものを支配することではなく、すべてのものに安らぎを提供することを目的とする木。「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」のだ(マルコ4:32)。

 世間の論理を捨てる努力をしよう。それは人々の時間を尊重せず、他者に奉仕すること以上に自分

の計画や考えを進めてゆくことを気にかける。神ではなく、わたし自身を見つめることにかかりきる。今日でもイエスはご自分を信頼するようわたしたちに求めておられる。みことばがあふれる土地、植物が生い茂るほど豊かな

土地。そこでは、わたしたちの小さな種は辛抱強く待つことを実行しなくてはならない。

 

あらゆる時はつねに新たな始まりである。

 いのちは永遠に開花し、さらにそれを繰り返す。山の頂上ではなく、家の庭に、大切に慈しみ栄養を与える風により、物静かにゆっくりとしかし、とめどない成長。始まりは控え目だが、並外れた成長。わたしたちの歩みのどこにいても、そこが新たな始まりである。無限を包み込むこの小さなものの神秘のうちに、わたしたちは日常生活でふれることのできる永遠の愛が脈打つのを感じるのである。わたしたちのいのちは種と同様に絶え間なく成長すること、終りを知らない開花のしるしを持っている。こうして、歴史の流れの中にわたしたちは人類全体を抱きかかえるいのちの木が成長するのを見る。その伸ばされた枝の下にわたしたちは平和の隠れ場を見つけるように誘われている。この人類普遍の抱擁の中に、すべての時は復活と希望の約束だという確信をわたしたちは見出す。救い、正義と平和を花咲かせる神の種まきをいかなるものも人も阻むことはできないのだ。

この懐胎期間の歩みが嵐や日照りの時期に直面しても、わたしたちはわたしたちの人生を世話くださるあの方に信頼し続け、多くの人々の十字架の道行きを引き受け共に生きることで、わたしたちもまた他者を気にかけ、世話して行こう。わたしたちに委ねられた人々!主がわたしたちに求めるこの絶え間ない委託とわたしたちの歩みに主が置かれる人々に寄り添う者になるようにという主の願いにわたしは驚かずにはいられない。

 実際十字架の道行きは窓から眺めるようなショーであってはならない。道に出て、苦しむ人、闘う人、希望する人の傍らに身をおくべきである。これはたやすいことではないし、まさに勇気と忍耐を要求する。わたしたちを支え、立たせ、耐えさせるのは忍耐である。降伏とあきらめのアンチテーゼだ。これは急ぐことを除外するが、情熱は閉め出さない。わたしたちの全人生には情熱がしみ込んでいる。生き生きとして多くの仕事に取り組むが、観想的な生き方。それによってわたしたちは福音と人への愛によって行動し、同時に最も絶望的な状況でも神の存在に気づくことができる。神はわたしたちを見捨てないから。神は現存し、つねに働き、活力にあふれておられる。

歩くために一緒になって

 主の絶えざる現存と日々の歩みに対する支えへの感謝の気持ちであふれんばかりの心を抱いて、道で出会う人々と共に歩む福音の務めを生きよう。わたしたちのかたちにおいて共に歩むことが意味するのは、わたしたちの人生が信頼の見えない糸と相互の敬意を通して縒り合されて行くようになるということだ。

そうして、各々の心をおおって守る連帯と哀れみの関係がつくられて行く。パウロが言うように、わたしたちは「キリストの律法を」全うするために「互いに重荷」を担うように求められている。個人主義の限界を超えてわたしたちを共同体―それぞれが自分の居場所と自分の存在意義を見出す―へと導く多様性の素晴らしさを発見するのは共同体の道においてなのだ。「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」(Iコリント12:27)。それぞれの才能とカリスマによって共通善を豊かにさせ、イエスが教えてくださったようにわたしたちの間に)神の愛を示し出そう。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:35)。より正確に言うなら、歩くために一緒になって。この表現はわたしたちの時代の二つの決定的な様相を明らかにする。まず、わたしたちはしばしば自分たちが置かれている混乱状態について振り返るように招かれている。わたしたちは歩いていない。もしくは十分ではない。何となく疲れた雰囲気を感じている。そこで、わたしたちの分裂への傾向が明るみに出される。わたしたちが歩んでいないときは一緒にいないからだ。歩みをきめられないとすれば、仲間の支えがないからだ。「一緒に」という副詞を取り消すたびに、わたしたちは「歩く」という動詞も消してしまう。

シノドス的な歩み

 自分を取り囲む現実を見ると、しばしば大勢の人々の自己犠牲や主への情熱からくる贈り物への感謝で胸がいっぱいになる。だが、この感謝は同じ人々が一緒に働いて、彼らの間で連絡を取り、考えを伝えあい、経験を分ち合っているというなれ合いでかき乱されてしまう。わたしたちは自分たち個人の殻、一人ひとりの現実、個人的な信仰体験で身を固めている。こうして警戒心が慣習、相互の疑惑が手段、除外がライフスタイルになってしまう。たぶん、わたしたちは大きな忍耐力をもって他者の論理に近づかなければならないのだろう。それを理解し、迎え入れようとしながら。個人同士の対話で失ってしまった調和を見つけ、あらゆるレベルでの協働と共同責任の味わいを楽しむ必要がある。わたしたちの存在の真の意味を再発見するのは、交わりと分ち合いによってだからである。これはわたしたちの信憑性と信頼性の実証基盤である。

 すぐれた音楽家のように、わたしたち一人ひとりはうっとりさせるメロディーを奏でることができる。しかし、単一の交響曲として音を調和させてこそ、わたしたちの使命を全うできるのだ。そのコースは長くて険しいが、わたしたちが未来に向って前進し、心を開いてゆくのを可能にするのは個人なのだ。まだ成すべきことは多い。忍耐はわたしたちの揺るぎない導き手となるだろう。わたしたちは遅れること、拒絶、不一致を受け入れることを学ばねばならない。それらを最終的決定的なことではなく、一層大いなるスコアの欠くべからざる音符と見なすべきである。降伏のしるしとして下げられたことはなく、誇りをもって天に上げられたわたしたちの手は逆境に立ち向う決意のしるしとなるだろう。不屈の内的抵抗を代表して、すべての障害の上に声高く歌われる歌のように。共同体の識別を行いながら、シノドス的歩みの幸せで肯定的な直観をつねに持ち続けよう。共同体として全面的に関わろうとする熱意をもって共に働こう。シノドス性を分ち合いと協働の確固たる経験にしよう。わたしたちの共同体の善は全員の貢献、真の兄弟愛の実りを味わうためにすべての閉鎖と個人主義の論理に打ち勝つ務めを要求する。この精神によってのみ、すべての人々が新たな熱意と信頼をもって教会の使命を抱きかかえるように励ますことで、シノドスは新たな挑戦の機会を差し入れることができるだろう。

「希望の巡礼者」

 普遍的な教会の歩みが重要な機会としてわたしたちにもたらす2025年の聖年「希望の巡礼者」はこの意味で読まれるべきである。免償と和解の告知によって特徴づけられる聖年は、絶望的に平和と調和の意味を探す世界において、神の存在と社会における神の正義を生きて証しするための特別な機会を提供する。教皇フランシスコが聖年公布の大勅書『希望は欺かない』にこめた貴重な省察はわたしたちの歩みの助けとなる。希望というテーマはわたしたちが進める歩みのうちに快く調和して入り込むだけでなく、わたしたちの共同体のあり方の刷新のための目標と取組を明らかにする意欲にもつながる。希望なしには、いかなる歩みも実行不可能だろうし、いかなる展望も具体化されないだろう。希望がなければ、歩みの道は色彩も眺めない乾燥した砂漠、出口のない迷路になってしまう。その代りに、希望を抱きしめれば喜びと完成の未来が示され、道は開かれ山は移動し、海は広がる。

 

 交わりのスタイル、交わりのセンス、交わりの意欲を見つけなくてはならない。奉仕の論理にだけ、わたしたちの無条件の働きを差し出そう。わたしたちの教会事業の効力ではなく、わたしたちの信頼性がかかっている。あり続けることにとどまるのではなく、わたしたちの考え方を切り開こう。宣教精神を生きること、わたしたちの時代の文化に住まうこと、新たな当事者、新たな社会的場所を取り込むこと、正義と平和の未来を夢見ることを辞めたくない若者や人々に寄り添うことの新たな方法を思い描こう。しかし、夢からしるしへと移ることは立ち向う、「よき知らせ」を伝えるための新たな道具を探す、キリストを知らない人々、遠くにいると感じている人々、キリストを忘れてしまった人々、信頼を失った人々、わたしたちと付き合わなくなった人々にキリストをもたらすための歩みに取りかかる勇気を要求する。

 死、絶望、無関心がどれほど多くも、希望の波をこの社会に与えるための新たな歩みを始めよう。「否定的」という理解を読み取ろう美しい色彩で現像された写真だと直観できるようにしよう。偏見のない関係、拒絶のない和解、除外のない協働、差別のない敬意、恨みのない抱擁を築き上げるため、沖に出る喜びを感じるため、みずみずしい創造性、共に歩むことの心地よさをわたしたちに感じさせる自由な空想力をわたしたちにかき立てるために、新たな歩みを踏み出そう。

 

目に見えない扉

 確かに過去の戸棚から、一時の甘い思い出を引き出すだけでは十分でない。窓を未来に開け放ち、希望と愛の作業場で共に計画を立てなければ。こうして、福音書に照らされた精神をもって、わたしたちの具体性に活気を与え、踏み出された一歩一歩が、わたしたちがここにいること、わたしたちがここに共にいることの素晴らしさへの賛歌だと意識して、復活の聖霊の喜びのうちに進んで行こう。雨を恐れず、疲労を気にせずに。共に差し出されたなら、すべての歩みは王国の一画となるのだ。わたしたちの巡礼のしるしが目に見えるしるしとなるように。わたしたちの兄弟と姉妹に向って歩みを続けて行くこと、わたしたちの側にいる人のいのちの聖なる扉の前に佇むこと、他者がわたしたちの聖なる扉の前に佇んでいられるようにすること―わたしたちの貧しさの扉、わたしたちのもろさとわたしたちの人間らしさの扉、それは兄弟愛を織り上げるため、交わりを生きるため、わたしたちの大地のあぜ道に美しく善である本物の種をまくため、平和と正義の建設者、愛と美の拡大者となるため。

 

 聖年は神のみこころの聖なる扉である、目に見えない扉を開く。招き、迎え、抱きしめる扉だ。実際にはつねに開け放たれているが、しばしば日常に気をとられ、なすべきことがあまりに多いわたしたちは気づかない。その扉を共に見つめること、敷居を互いに励まし合いながらまたぐことは歩みの始まり、恵みの一息の始まり、傷がかすかな光となれる時、自由、治癒、ゆるし、贖いの香りを放つ時の始まりとなる。聖年は約束のこだまだ。誰も愛から除外されない。誰ひとりとして、希望から忘れられることはない。

 

十字架が道を開く

 道は十字架のしるしのうちに開かれる。それはあの方の十字架、復活の十字架のしるしである。わたしたちの十字架のすべてが時に応じて希望で現在を輝かせ、復活で未来を照らして。その十字架に意味を見出す。すべての十字架を中に納めているのはあの方の十字架だ。見捨てられた人々、傷ついた人々の十字架。明日を探しながら、傷と痛みで疲れ切った今日を生きる人々の十字架。その十字架は単なるしるしではない。橋、灯台、約束だ。それが示すのは、裏切らず、混乱させず、失望させず、最も暗い夜をも照らす希望。聖年で第一歩を踏み出すのは十字架だ。信仰は世界の痛みを知り、それを愛、歓迎、誰ひとりとして辺境に置き去りにすることなく抱き締める未来に変える。実に聖年は単に祝いごとや儀式だけではなく、わたしたちのいのちに吹きつけてくださる神の息を聞き取るために与えられた機会なのだ。そうしてわたしたちは束縛から解放され、愛された子どもとしての尊厳に立ち戻ることができる。

 

 この聖年には、わたしたちの傷を包み込むことを神に願わなくてはならない。わたしたちが出会う人々にも同じようにするためだ。今こそ、貧しい人々、疎外された人々、罪人は自分の尊厳を取り戻す。今こそ、わたしたちに対する不正、暴力、腐敗が粉砕される。今や、神の現存が満ちあふれた聖なる所、敬意、驚嘆、気遣いを込めて住むべき共同の家だという意識をもって、大地を守るという神の招きを真剣に受け止める時だ。借金をなしにし、不当な圧力に苦しむ人々の尊厳を取り戻す時だ。互いに手を取り、正義をもたらし、平和の新たな道を開く時だ。自分の洗礼をとらえ直し、わたしたちの誰もが希望の作り手、世界が必要としているあの希望の作り手となれる時だ。

歩む、成長する、挑む

 この聖年に、わたしたちは天に向けてまなざしをこれまで以上に投げかけるよう主から招かれている。わたしたちの問いかけ、この時代の問いかけに対する深遠な答を福音書に探し求めながら、足はしっかりと大地に据えられていなければならない。

 すべての大地に印された痛みに、わたしたちは皆で向き合おう。深くまで傷つける痛み。「戦争」と呼ばれる痛み。平和を祈り求めよう!わたしたちの家族を傷つけるような小さなものから、より大規模なものまで、すべての衝突に平和が来るように。国際的な関心をひくもの、」日々の緊張の絶え間ない積み重ねも、増して行けばやがて戦争になる。この戦争の停止がわたしたちにとって、すべての場所、すべての時代のすべての無益な流血の決定的な終結に対する希望の戒告となるように。

 聖年は希望をもつことへの招きだ。しばしば不信によってしるしを付けられた世界で、神は先を見るように、未来は神のみ手にある、まだ希望の余地があると信じるようにわたしたちに求めておられる。希望はかき乱さない。希望は幻影ではない。それは具体的な歩みだ。神の国を建設する小さな歩幅、単純なしぐさによる歩み。神がすべてのものを新たにしてくださるように任せよう。わたしたちの確信もわたしたちの計画も。そうすれば、神の斬新さにも耐えることができる。神がわたしたちを解放し、ゆるし、癒し、希望の力のある男と女にしてくださるように。聖年は分ち合うべき贈り物だ。哀れみの贈り物だ!立ち上がって歩く時だ。共に歩む。共に成長する。共に挑む。キリストに倣って。最も恵まれない人々の歩みに。福音の名において。