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シスター 濱﨑ユキエ マリア
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帰天年月日 |
2025年4月4日 |
場所 |
東京都 |
修道生活 |
74年間の修道生活 |
略伝 |
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」シスター濱﨑は、『使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙』5章16節から18節のこの言葉をサレジアーナとして生きる道として大切にしていました。 シスター濱﨑ユキエ マリアは1931年7月9日、長崎県大村市で、父 善作(ぜんさく)、母 ハツ の6人の子どもたちの長女として生まれ、生まれて2日後に大村教会で洗礼を受け、マリアの霊名をいただきました。 長崎、外海の信仰篤いキリシタンの祖先をもつご両親は、家庭のなかで子どもたちの心に深いカトリック信仰を育てました。この祈ることは自分の使命だと何度も繰り返すシスター濱﨑の言葉は最後まで変わりませんでした。 まだ幼いユキエさんの心にシスターとして生きる望みを芽生えさせ、信仰生活を中心とした家庭での生活は、本会の編年史『年輪(上)』に書かれているように、サレジアン・シスターズとの出会いと、召命の歩みへと繋がっていきました。そこには、「当時大村に上陸していたアメリカ進駐軍に援助を求めて、4、5名のシスターが交替で何回か別府から足を運ばれていました。…不思議な外国人のシスターたちを興味深く見守っていた私は、これが私の行くべき修道院のシスターで、私もそこに行こうという強い望みをかき立てられました」と書かれています。 宣教女たちと出会い、15歳で志願者として別府の志願院に入りますが、大村の教会の主任神父様は、「どこの修道会に入るのですか?」と問われて、「サレジオ会の姉妹会です。」と答えると、神父様は「ああ、とても立派な会です。あそこはチマッティ神父様がおられます。あの方はとても立派な方で、私は北京で神父様に接することができました」と励ましてくださいました。 1946年11月、別府の聖マリア・マザレロ修道院に志願者として入会、戦後の貧しい環境のなかで、小百合愛児園の小さな子どもたちの世話、洗濯、牛のための草刈りを仕事とし、小さな身体に大きな荷物を背負って坂の下から運んだりしていました。 入会から2年後、1948年1月31日にポストラート、半年後に修練期、1950年8月5日に初誓願宣立、その後、東京、山中の星美ホームで子どもたちのアシステンテ、幼児190人程のアシステンテをし、何の設備もなく、寒さによるシモヤケの幼児たちと昼夜を問わず、夜は修道服のまま子どもたちの間にザコ寝することも度々でした。 1962年、東京守護の天使修道院で調理を担当しつつ、調理師資格の取得、1971年から別府修道院で受付の奉仕、大村、東京、調布、大阪、静岡、世田谷、目黒、湯布院…と、従順によって移動しながら、主に調理の担当者として苦労を捧げ、惜しまず喜んで奉仕しました。教会のオラトリオやカテキスタとして福音宣教を熱意をもって生きました。 2010年から7年間、静岡聖心修道院での調理担当、2017年、東京マリア・マザレロ修道院で5年間、若い志願者たちと一緒に生活し、心臓の状態が思わしくなく体力も衰え、2021年、守護の天使修道院で休養の生活に入り。静かに穏やかに、祈ることを使命として生活していましたが、2023年4月の終わり頃、脳梗塞をおこし、北医療センターに緊急入院、その後落ち着き、5月15日に慈生会「ベトレヘムの園病院」に転院、この最後の入院生活のなかで、天国への旅立ちの最後の準備を整え、宣教女の姿に魅了され、サレジアーナとしてイエスに従って生きたマリア・ピッコラ、小さいマリアの74年の修道生活、93年の生涯を全うしました。 |