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平和を教えること

DMA誌 2024年冬号 特集

平和を教えること

 

フェデリカ・ストラーチェ

 私たちは戦争と緊張、暴力の時代に生きている。家の外でも中でも頻繁に使われ、普通のコミュニケーション手段になったように思われる、怒鳴ったり中傷したりする言葉遣いで若者たちや大人たちを取り込む。「私たちがいる地政学の状況は、世界の歴史、伝統、ビジョン全体を考え直すようにさせる。私たちはカタストロフィーによって表される時代の分岐点にいる」。2024年5月22日の『アッヴェニーレ』紙に載ったインタビューで哲学者マッシモ・カッチャリはこう述べている。

 

平和の文化のための新たな道

 絶えず平和を祈り求める教皇フランシスコの声は砂漠での叫びのように孤立しているようだ。それでも平和のための教育は可能なだけではない。今日では優先的な義務むしろ至上命令である。まさにカントによる意味において、信者であろうとなかろうとすべての人々に関わる選択なのだ。

 サレジオ的カリスマにおいて、信仰はさらにこの平和の探求と構築にスイッチを入れ育んでゆく。預言としての平和というのは、私たちは深い意味で現実的な2人の聖なる創立者の息子と娘だからだ。当時も今のように、重大な社会問題、緊張、貧困、面倒な政治的問題があり、2人は自分たちにとって考えがたい未来に立ち向うこともいとわなかった。教育の道の到着点としての平和、なぜなら予防教育法はそれ自体のうちに、急速な変化をする私たちの社会のリズムで、今日と明日の「良きキリスト教信者で誠実な市民」を育てるためのすべての価値を有しているからだ。信仰の「告白」としての平和、安楽に陥らない信仰、旧い「精神的習慣」に安心せず、新たな時代の挑戦をつかむことには大胆である。そして神との個人的関係のうちに生きてそれを証しする信仰。

 女性、妻、大学教員、作家としての私の経験は絶えず真の平和の文化を築くためのきっかけとなっている。

 平和をうみ出すためにどのようにして縦糸と横糸を織り合せれば良いのか。

 

世話をすること:母性、父性、うみ出す力

 「世話をする」というテーマはすべてのうみ出すプロセスの中心であり、しばらく前からの私の個人的振り返りと仕事のかなめである。女性の感受性によって母性の経験に結びついた世話―「心の中の母性」の無限の宇宙を探検しながら、私はそれに単に「肉体的な」次元よりさらに広大な次元を与えることができた。実際、世話をする女性とは母親、いのち、再生、贖いの可能性を具現化する存在である。

 とりわけ女性は人間関係を作り上げることにたけている。世話をすることに加えて、時間の大事な意味をわかっているからだ。女性、母親は子どもたちを産む時のように成果を生じさせるのを待つことができる。平和の働き手となり、辛抱強くいのちの奉仕に関わる。

 私はこれまで多くの修道女たちと知り合い、彼女たちにインタビューし、彼女たちについて書いてきた。修道者として貞潔のうちに大勢の人の母として、現代の社会と文化の中で母性を生きている人々だ。そして過去も現在も最も弱い人々を守るため、多様性を受け入れるため、和解と復興、成長のプロセスに取りかかるため、情熱をもって働く女性たちである。

 私たち一人ひとりの「実りの豊かさ」は無償でも打ち込む私たちの勇気に固く結びついている。私たちの家庭、仕事場、小教区において、友人たちとの間で、私たちの町の政治・社会・文化の場で、私たちはこれまでとは別の生き方を作り出すように呼びかけられている。

 「それぞれの日々の義務を遂行することは、自分のいるところに留まることを受け入れることだ。神の国が私たちのところに来るように、私たちがいるこの地上に広がるように。最高の従順によって、受け入れることだ。私たちが形作られている物質、私たちがメンバーである家族、私たちが働いている職業、私たちの民族、私たちを取り囲む大陸、私たちを包み込む世界、私たちが生きている時代を」(マドレーヌ・デルブレル)。この受容は決して消極的ではなく、福音的パン種のように内的な働き、何よりも現実の状況に身を置くことだ。

 現実は決して女性だけのものではなく、男性像、父親像にも見直しを求める。今の時代、しばしば父親の不在について言われるが、男性によるいのちへの働きかけの多くの沈黙の証しがある。かなり困難な状況にある少年たちの教育に身を捧げる修道者がいる。私は2つの少年刑務所のチャプレンと知り合うことができた。1人はミラノのベッカリア少年院のドン・クラウディオ・ブルジョで、多くの「道具」の中でも少年たちの成長とリハビリのために音楽を用いている。最近亡くなったサレジオ会のドン・ドメニコ・リッカは、ドン・ボスコがジェネラーラでしたようにトリノのフェランテ・アポルティ少年院で10年以上チャプレンを務め、極めて痛ましい状態にある若者たちにも希望の種を与えることができた。アレッサンドリアの刑務所のボランティアであるフラ・ベッペ・ジュンティは正義の協力者の家族を見守り、教育が平和と正義の文化を築くためにどれだけ基本的な役目を果しているかを強調して、マリーナ・ロムンノと共著で『先生へのEメール―学校はどのようにしてマフィアと闘えるか』を書いた。さらに数多くの家族救護の団体の実状を取り上げることができる。どれもが不自由さと依存を防ぐための砦だ。他にも多くの司祭、修道士、信徒が包摂、最も弱い人々・正義・環境の保護、文化の普及のために尽している。

 

出会いと人間関係の構築

 「私たちを囲いの中にとどまらせ、大胆な行動をさせず、希望を取り去るような衰退の文化を生きることを望まない」1。平和を築くためには、私たちの確実性、身元の保証から出て行かなければならないのだ。「出向いて行く教会」の生きたメンバーとなるためには、私たちははびこっている近しさから離れる必要がある。

 私にとって人間関係を得る出会いは、はかり知れない豊かさ、平和の文化を形づくり、分ち合うための機会である。

 私はSr アレッサンドラ・ズメリッリと正しい行儀の教え方について話し合ったが、それはまだ十分でなく、かなり幼いときから教育を通じて指導しなくてはならないものだ。世話をすることは狭い範囲では行われているが、まだ私たちの社会のなかで全面的には行き渡っていない。それは是非とも必要だ。経済への影響、付加価値として受けとめられるべきだ。より多くの女性が教会と社会の考察と識別に参加できるようにしなくてはならない。

 ローマのある修道院でのマードレ・エレナ・ベッカリアとの出会いとそこでのシスターたちの生き方を知ったことも私に思いがけない視野を開かせてくれた。私は教会の祭壇の前にいる信徒たちと後方の格子の向うにいるシスターたちの共同体に自分の著書の中の1冊を紹介した。クララ会の修道女たちは世界に逆らうような彼女たちの生き方を証しするために「格子」をさわれるしるしとして残すことを選んだ。沈黙は過剰なコミュニケーションに、忍耐は速さに、内なる精神に向うことは外的なものに与えられた重要性に、存在の恵みは行動の効率にそれぞれ対するものである。助けと祈りを願い求める兄弟や姉妹の世話をすることに表される母性。実に兄弟や姉妹として互いに必要としていることを認め合うことによってのみ、連帯性を経験し、平和が築かれるのだ。

 ピアチェンツァのベネディクト会聖ライモンド修道院の院長マードレ・エマヌエル・コッラディーニの許可を得て、形づくる「パズル」に重要なピースを皆さんにも伝えることにする。たとえば、「場所を作らせる」のでなく、「場所を作る」ことをつねに訓練することで平和が構築されるのを意識すること。母親の子宮のように迎え入れること。修道院に入る決心をする前は1990年初頭までAIDS患者の感染症専門医だったマードレ・エマヌエルは科学のような新たな現実を探索する道を私に開いたのだった。

 嚢胞性線維症研究財団の副所長、医師であるグラツィエッラ・ボルゴ先生、他の医師や研究者と共に人間としての個人の尊厳を中心に置いて、病気の治療さらに死への同伴の大切さを掘り下げて研究することができた。平和を教育するための基礎的歩みである。すべての被造物と天地に対する敬意はすべての破壊行動や死の選択を止めるからだ。

 一方Srガブリエッラ・ボッターニとSr エウジェニア・ボネッティは女性の尊厳を守るために尽力する不屈の2人の女性である。

 Sr ガブリエッラは人心取引問題に立ち向う奉献生活者の国際ネットワーク、タリタ・クムに取り組んでいる。その経験は才能開拓と組織行動における奉献生活の強みを推進し、女性の能力ことに人間関係をつくり上げたり、共に歩んだり、女性の権利拡大・社会進出から始めて新たな現実をつくる力に寄与する。今日の世界で驚くほどの数の人々を引き込んで搾取の鎖を取り壊しながら平和を築いている。

 コンソラータ会のSr エウジェニアは始め宣教女としてケニアで働き、イタリアで働き場を見つけて2012年にSlaves no more (奴隷根絶のための会)を設立した。これは女性に対する暴力と人身売買ことに性的なそれに対抗する組織である。グローバリゼーションの暗い側面であるが、光が当てられなければならない。共謀する無関心の前に平和はないのだから。「私は、私たちのライフスタイルが引き起こす多くの苦しみと不愉快を見ないようにさせている通り一遍の社会を別の側から見た」。

 

暴力を知り、それと闘うこと

 残念ながら今日私たちが生きているのは……認識と無関心、現実とヴァーチャルの次元の間で動く逆説的力学における暴力との契約によってである。教員としての私の経験は有意義である。家庭内暴力、いじめ、サイバーのいじめ、ヘート・スピーチに関わってきた。

 暴力反対センターの貴重な働きはほとんど知られていないだろう。女性たちとその子どもたちを夫ないしパートナーの虐待から引き離してサポートしている。私たちの国ではしばしば女性嫌悪から起きる殺人が話題になる。この種の暴力による女性の死は記事に取り上げられることが多い。しかしごく一部に過ぎず、実際には大部分は水面下にあることはあまり知られていない。言葉や心理的・経済的な暴力は身体的・性的な暴力より長期にわたり、子どもたちがそれに加わることもある。尊敬の気持ち、正しい言葉遣い、ステレオタイプから解き放たれた言葉遣いを教えること。感情を正しくコントロールし、子どもの時から愛は「所有」ではなく「贈り物」であり、成長のための特別な場所は強制・服従ではなく、責任に管理された自由であると理解させる教育。これらも子どもたちの言葉の使い方と行動から始まり、文化をつくり上げるための道なのだ。

 最近ようやく修道会ことに女性修道会内部でのパワーハラスメントや暴力の実態が取り上げられるようになった。ヴァチカン専門のジャーナリスト、サルヴァトーレ・チェルヌツィオ氏のおかげで私はそれを知ることになった。彼は苦しみ、引き裂かれるような痛み、痛ましい破綻を引き起こす行動を覆い隠すベールを取り去ろうとした。それにより、サポートと同伴の働きかけができあがった。

 隠された暴力から実際の戦争が起きるまでに、私は南スーダンのクリスチャン・カルラッサーレ司教と知り合うことになった。ルンベクの司教に任命されるやいなや重傷を負い、治るとすぐにアフリカに戻った。市民戦争と内部衝突に苛まれる国の平和の働き手、平和の文化を築くための具体的な方法を思い描く、世界で最も若い司教の1人だ。学校をつくること、経済活動の推進、女性の解放のために女性を引き入れること、衛生面のサポート、対話。「武装解除を通して、出会い・コミュニティでの傾聴、治安を固め、経済復興を支援するための相互信頼のプログラムを通して人々に平和が届くことが必要です」。

 同じことはFMAの宣教部門担当総評議員Sr ルト・デル・ピラール・モーラによっても言われている。まずコロンビアの現場で働き、アフリカでは一時期クリスチャン司教と共に力を合わせて活動した。傾聴する力、統括、特別に少女たちに注意を向ける教育。2人とも平和を築くさいの人間関係の重要性を強調する。「私たちの使命には場所もプランもありません。人生はあなたを通して過ぎてゆきます。与えられるべきはつねに他者との人間関係のうちにうみ出される、あなたの一部です」。

 暴力への防御策、暴力のすべての形を防ぐための戦術としての人間関係とゆるし。

 

マニフィカト

 平和の文化はすでにマニフィカトの賛歌において現れている。2人の女性の出会いとその胎内のいのちによって開花した賛歌。2人の異なる女性、年上の女性のもとに向い手伝うために出かけた若い女性。明らかに異なる2人の母性、出会いの喜び、世俗の論理とは全く異なるできごとを祝うこと。この歌にこめられているのは、新たな世界の確かさ、歴史の中で神の王国がすでに動いていることの確かさ、傲慢と尊大さに対して不屈の謙虚さによって応じるとき、富と力に対して貧しさともろさが支持されるとき、憎しみに対して正義と慈しみが優位に立つとき。互いに後ろを見ないで、マリアが山を越えていとこのエリサベトを訪れるために旅に出発したときと同じ落ち着いた決意によって平和の道に入ることを私たちが選ぶとき。