No. 1048
わたしたちの人生における母性的な
マリアのpresenza
親愛なる姉妹の皆さまへ
このチルコラーレを、世界共同体感謝の日に思いを馳せながら始めさせていただきます。この時を通していただいたすべての恵みに対し、主に感謝を捧げたいと思います。
この出会いは、わたしたちが一つの家族であることをより強く実感させてくれるものであり、同時にわたしたちのカリスマの原点へと立ち返らせてくれる機会でもあります。
実際、サレジオ的霊性において、感謝の祭日は大きな教育的価値を持っています。「ありがとう」と言うことを学び、教え合うことは、神の愛、そしてわたしたちが共に生きる姉妹や兄弟たちがわたしたちのためにしてくれること 存在そのものを認める、最初の行為です。
わたしたちの人生において、当然のことなどは何ひとつなく、すべてが「恵み」であり、「贈り物」です。そして、それは特に、恵みと希望に満ちたこの復活節の時期に、より深く理解できるのではないでしょうか。
わたしたちはご一緒に、イエスがわたしたちのために最後の息まで、そして全人類の救いのために命を捧げてくださった、救いの行程を思い起こしましょう。
この祝祭の行事を、心を込めて、愛情と深い関わりの中で準備してくださった、ベトナム管区「扶助者聖マリア」管区の皆さまに、わたしたちは心を一つにして感謝の意を表します。
共にささげる感謝の祈りのうちに、つい先日第29回総会を終えられたサレジオ会の兄弟たちの喜びにも心を合わせたいと想います。
新しく任期が始まる6年間が、新しい総長 ファビオ・アッタルド神父様の導きのもとに実り豊かな歩みとなりますように。神父様をはじめ、新たに選ばれたすべての総評議員の皆さまに、わたしたちは祈りと共に、心からの協働をお約束します。
本会のマリア的アイデンティティー
チルコラーレ1047号で始めた考察を続けいと思います。改めて、主に、そして『会憲の実践的解釈』の作成にご協力くださったすべての姉妹の皆さま方に心より感謝します。このテキストを受け取った、修道生活70年、うち66年を宣教地で過ごしてこられた宣教女の一人の姉妹が、私にこう書いてくださいました。
「私は(この高齢ゆえに)この註解書を受け取って、もう少し早く届いていれば…という残念な思いもありますが、もしまだ少しでも時間が与えられるなら、このテキストの読書は、花婿との出会いに向けて、よりよく備える助けとなることでしょう。」
この表現は、わたしたちに深い思いをもたらすと同時に、喜びをも与えてくれます。なぜなら、主はいつもわたしたちと共におられ、人生のあらゆる時において、このような賜物を通しても、わたしたちの忠実さを新たにしてくださるからです。
改めて強調いたしますが、すべての扶助者聖マリアの姉妹一人ひとりが、あのテキストを個人的に受け取ることは非常に重要です。それは、単なる書籍ではなく、聖性への確かな道標(みちしるべ)であり、会憲をより深く生きるための助けとなり、交わりを支える力であり、わたしたちの生活と使命が、教会と世界の中でいのちを生み出すものとなるための、実際的な手段ともなることができます。
もしかするとわたしたちは時に、自分たちの生活の規則について、必要な理解を欠いていることがあるのかもしれません。この規則を根本から受け入れていなければ、それはわたしたちの生活を変容させることも、善き牧者イエスに倣って生きる支えにもなり得ないのです。
今話題にしているこのテキストは、わたしたちが初めからイエスに従おうと決心した、その深い動機へとわたしたちを導いてくれます。この貴重な手がかりから出発して、会憲の中に見られるマリアのpresenzaについて、改めて注目したいと思います。
わたしたちのマリア的アイデンティティーは、会憲全体にわたって一本の赤い糸のように流れており、特に、マリアに関する条文として明確に表現されている部分に際立って現れていますが、それだけにとどまらず、他の条文でもさりげなく触れています。それはまるで傑作の背景にふさわしい色をそっと加える一筆のように、または楽曲の中で繰り返し登場する、それでいて常に新しさをもたらす旋律のようです。
会憲4条は、教育を通して青少年の救いに貢献するため、教会の中に誕生した修道会の創立体験への言及から始まります。
その本会創立の中にマリアの存在があります。マリアは、ドン・ボスコに対して、ご自分の娘と見なしていた貧しい少女たちの世話をするよう招いています。
マリアは、霊感の与え手であり、母であり、師でもあります。したがって、わたしたちはこの本会が「全くマリアのもの」であり、マリアに属するものであると、はっきり言うことができるのです。
実際、本会は、創立の時だけでなく、その後の歴史を通して今日に至るまで、マリアの母として、また予防的な配慮を確かに体験してきました。
マリア的次元は、扶助者聖母会のアイデンティティーを特徴づける固有の要素です。その生き方を計画に定義し、また、母であり、助け手であるマリアのように、青少年の助け手「扶助者」となって、彼らがキリストの姿にまで成長するよう導くという教育使命において継続されるものです(ガラテヤの信徒への手紙 4章19節 参照)。
マリア的と定義されるもう一つの条文は、「わたしたちを導かれたのは聖母です」と言うドン・ボスコの言葉を中心とする 44 条です。
深い考察をする理由はたくさんありますが、ここでは上記で引用した条文にある二つのタイトル、「無原罪である扶助者聖母のうちに、神と隣人へのあふれるばかりの献身を観想する」に焦点を当てたいと思います。
無原罪である扶助者、この称号には、わたしたちのアイデンティティーと使命に深く関わる二つの意味が込められています。
「無原罪」は、神の予防教育と、若者たちの心をその恵みに開かせる力強い愛の働きを思い起こさせます。「扶助者」は、小さい者や貧しい者を守る存在であり、成長するいのちを、手を取って、養い、導き、教育し、養成し、支える母の心遣いを表しています。
母であり、教育者
マリアは、各々のサレジオ的召命の母、教育者と見なされています(会憲 79条)。わたしたちがキリストに似た者となる道を共に歩み、わたしたちの生活をキリストに向けるよう助けてくださいます。
聖母のpresenzaはイエス・キリストの存在と切り離されることはなく、むしろわたしたちの会憲の中でのマリアへの言及は、キリストと教会の共同体を指し示しています。
彼女こそ、ご自分の子となられたイエスの最初の弟子であり、キリストとの深い一致ののうちに生きている方です(会憲 4条)。
マリアは、何よりもまず、イエスがご自身のために選ばれた貞潔で、貧しく、従順な生き方を、すべてをささげて甘受されました(会憲 11条)。このようにして、彼女はますます完全な形でキリストの後に従う道を歩んだのです。
貞潔に関する条文の中で、わたしたちはこの徳が神の愛の現れ、マリアの母性愛の映しとすることを読み取ります(会憲 14条)。貞潔のたまものをより豊かなものにするために、扶助者聖母会員は、世に救い主をもたらした神の母おとめマリアに自分を委ねます(会憲 17条)。
このように、18条の清貧に関する条文において、神にすべてをささげた謙虚なはしためマリアを模範とします。
32条は、単純に迅速な従順のうちに生きる従順によって、あがない主の母、わたしたちの母となられた聖マリアの「フィアト」という神のみ旨への同意を自分のものとします。
聖霊へ素直に従い、マリアと共に、マリアのように祈りに専念することによって、神との交わりを深め、姉妹兄弟たちとすべてのことのうちにおられるキリストに自己を開くことができます(会憲 37条)。
マリアは、わたしたちすべてにとって、聖霊へ素直である歩みにおいての導き手、助け手です。黙想の間、わたしたちの全存在の沈黙のうちに、「耳を傾ける乙女」マリアに倣って、聖霊の力に自己をゆだねましょう(会憲 39条)。
44条で既に述べたように、神と隣人へのあふれるばかりの献身へとわたしたちの生活を導いてくださるマリアは、わたしたちにとって、主の言葉に対する素直さを教える教師でもあります。聖母に対するわたしたちの態度は、「娘としての感謝に満ちた愛」であり、「単純さと信頼」にあふれたものです。
わたしたちと彼女との関係は、祈りだけにとどまらず、福音宣教への情熱を育むものです。そのため、わたしたちに委ねられた若者がイエスに出会えるよう、かれらの導き手や支えとなって、マリアへの愛を青少年に伝えるように努めます。
予防教育法に関する会憲7条には、わたしたちの固有の霊性、司牧活動の方法について貴重な、聖書的およびマリア的な根拠が示されています。「使徒的愛」の体験は、キリストのみ心そのものから湧き出るものであり、マリアの母性的配慮を模範としています。
マリアの仲介の特長は、母性的な仲介であるということです。
彼女は救いの出来事の中に母性的次元を存在させ続け、その母性的次元は彼女の中に永続的な仲介を保ち続けています。
彼女の母性は、単なる一度きりの生物学的な出来事ではなく、恵みの神秘として教会の中で終わりなく続きます。なぜなら、イエスの言葉に耳を傾けること、悔い改めること、実現することを通して、絶えずキリストを生み出し続けるものであるからです。イエスは言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:20)。
権威の奉仕に関して、扶助者聖母会員は、全ての人に対してすべてとなり、母の心をもって、聖母の強く優しい愛を表すよう努める。すべての人に寄り添うことを目指しています(会憲 114条)。ドン・ボスコの言葉とマードレマザレロの体験によれば、聖母こそがすべての共同体と会の真の上長です。共同体を活気づける者として呼ばれた会員は、マリアのように、委ねられた一人ひとりにおいて、おん父のご計画に仕えることができるよう、聖霊に温順であることにおいて第一の者でなければなりません(会憲 52条)。
わたしたちと共に、わたしたちのうちにおられるマリア
ドン・ボスコはわたしたちを「扶助者聖母の生きた記念」として夢見ていました。
この表現は、「生ける記念碑」という言葉の現代的な言い換えであり、それは修道会の養成計画の中でも示されています。
「本会を、『扶助者聖マリアに対する感謝の生きた記念碑』(『クロニストリア』 1 384頁)と望んだドン・ボスコのカリスマによるプロジェクトへの忠実のうちに、わたしたち一人ひとりは、マニフィカトのおとめ、聖母マリアの生きた記念碑であり、青少年に対する神の愛のあかしと表現となります」(養成プロジェクト サレジアン・シスターズ『神との契約のうねの中で』 34頁)。
マリア・ドメニカ・マザレロは、ドン・ボスコが「生きた感謝の記念碑」として扶助者聖母に捧げた「最初の礎石」であり、神がわたしたちを「聖母の真の生き写し」であるよう呼んでおられると確信していました(『クロニストリア』 3 255頁)。娘はまさに、自分自身のうちに母の面影を映し出しているのです。
この確信は、数年後にフィリッポ・リナルディ神父によって改めて語られました。彼は、ドン・ボスコがこの記念碑を至聖なるおとめマリアを模して築こうとしたことを認め、扶助者聖母会の会員たちが、自らをもって真にこのマリアへの記念碑を形作るために、何をすべきかを問いかけていました。
記念碑は、それが象徴する人物の姿をできる限り忠実に映し出すものでなければなりません。ドン・ボスコがこの修道会を創立した際の思いもまさにそこにありました。すなわち、この修道会に属する一人ひとりの修道女が、聖母マリアの忠実な写しであることを願ったのです。ドン・ボスコは、扶助者聖母会の一人ひとりの修道女の中に、聖母の姿が映し出されているのが見えるようにと望んでいたのです(参照:フィリッポ・リナルディ神父による扶助者聖母会員へのチルコラーレ1922年5月24日)。
今日、聖母の生きた記念となるために、また神の呼びかけに応え、教会と世界の中でこのカリスマをよりいっそう生き生きとしたものにするために、わたしたち一人ひとりが、自らの生活の中にマリアの面影を映し出すことが求められています。
最後に、わたしたち一人ひとり、そしてすべての教育共同体に対し、マリア的教育のパラダイムを新たな活力をもって再び自分たちのものとして受けとめ直すよう、呼びかけたいと思います。マリア的な修道会であるということは、「マリアを自らの家に迎える」ことであり、すなわちわたしたちの教育使命がマリアに倣うものであるようにという呼びかけです。
急速に変化し続けるテクノロジーの時代にあって、私は確信しています。教育の中に根ざした、堅固なマリア的霊性なしには、福音の観点から、いのちと希望を再び生みだし、よみがえらせる力となる新たなヒューマニズムは生まれないでしょう。
ドン・ボスコの予防教育法を原点とする教育者は、次のような点でマリアを鏡とするよう招かれています。すなわち、新たに生じてくる必要を察知すること、人々の心と歴史における神の働きを前にして、驚きの念を保ち続けること、聖霊に開かれること、そして、委ねられたすべての若者を、イエスとの出会いに導くための賢明と喜びに満ちた先を見越した果敢さです。
私とあなた方が、マリアと深く共鳴し、真の娘として心から愛し、わたしたちの生活の中にその美しさと母としての配慮のいくらかの側面を輝かせることができるようにと願っています。こうしてわたしたちは、今日の歴史の中でその「生きた記憶」であることができるのです。
わたしたちは引き続き、世界中に平和の贈り物を願い、戦争、暴力、不正義、自然災害、そして絶え間ない新たな貧困の形に苦しむ共同体を支えるために、わたしたちの祈りと献金をもって支え続けましょう。
復活された主の母マリアに、すべての人々、特に困難な状況にある子どもたち、若者たち、家族、そして、より人間らしく、より連帯したより良い未来を待ち望んでいる人々をお委ねしましょう。
すべての人が、わたしたちの生活において継続する復活の喜びと充満を、心から喜ぶことができますように。
ローマ 2025年 4月24日
皆様を愛するマードレ