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あなたの富のあるところに、あなたの心もある

No.1036

 

あなたの富のあるところに、

あなたの心もある

 

愛する姉妹の皆様

 復活祭に向かう四旬節の歩みも、ほぼ終わりに近づいています。この時期の典礼は、心を尽くして神に立ち返り、神をわたしたちの人生の唯一の主とするこという、回心への切迫した呼びかけで満ちています。

 3月のこの月、教会は聖ヨセフの姿にもわたしたちを注目させてくれます。モルネーゼ、そしてニッツァにおいて、聖ヨゼフが初期の共同体の日常生活の中で、常に不変的に存在していたことを明確にするのは素晴らしいことです。彼は共同体の会計、保護者、霊的生活の管理者、また召命の識別における積極的な協働者として祈り求められていました。

 マードレ・マザレロは、その信心を勧め、「聖ヨセフへの祈りによって、わたしたちの家から修道生活に相応しくない人や、寄宿生の中から友だちの良い手本とならない人を取り除いていただくという特別な目的を置くよう望んでいました。この聖ヨセフに願った特別な祈りの効果について、わたしたちは幾度もそれを確認することができました」(Maccono F. Santa M. Domenica Mazzarello I, 308-309 試訳)。

 わたしは、会のクロニストリアに見られる聖ヨセフの力強い存在に関する多くの記載事項を大切にし、信頼と希望をもって彼に寄り頼むようお勧めします。わたしたちは彼の声に耳を傾け、自らの生活の選択を彼の選びと比較対照し、霊的生活をさらに深め、平和のため、家庭と人類家族の一致と融和のため、その執り成しを求めることができます。

 ドン・ボスコは、保護者、「配慮」のイコン、また、傾聴、従順、歓待、創造的な勇気の模範として、聖ヨセフをわたしたちに下さいました。それは、わたしたちもまた、イエスを心の中、自分の全存在の沈黙の中に抱き、特にわたしたちに託され、使命の「魂」である青少年にイエスを知らせることを、彼から学ぶことができるようになるためです。この願いを込め、わたしたちは、会憲が示している通常の何気ない一瞬、一瞬を大切にしながら、日常生活の中で実現される養成について、考察を続けましょう。     

 

黙想 いのちの呼吸

 このチルコラーレでは、ただ単に信心業としてだけでなく、わたしたちの霊性の特権的な体験として、黙想の意味と価値について考えてみたいと思います。

 イエスに従うということは、第一に、福音の喜びを告げ知らせるために、どんな親密さからも遠ざかり、イエスとともにいること、イエスと一緒に生きたいということを意味します。

 マルコによる福音書の中で、わたしたちに身近なことで興味深い一節があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(マルコ 3, 13-15)。

 イエスは、使徒として彼らを遣わす前に、弟子となるようご自分が招かれた人々に、すべてを包み込むユニークな主との出会いの、個人的な体験をすることによってのみ、兄弟姉妹への奉仕に献身することができることを、主とともに、主から学ぶよう求められます。

 イエスとの交わりは、奉献された女性としてのわたしたちの生き方と教育的な使命の深い意味があり、もしわたしたちがイエスから離れるなら、樹液がなければ実を結ぶことのできないぶどうの木から切り離された枝のようなものです(ヨハネ15:1-6)。

 教皇ベネディクト十六世がドイツへの使徒的訪問で神学生たちに話されたことは、扶助者聖母マリアの娘であるわたしたちにとっても役に立つでしょう。「兄弟姉妹への奉仕に身を捧げ、主とともにいる時間を見つけられないという誘惑に陥らないように気をつけて下さい。それは深刻で、致命的なものにもなります。あなたは、自分の源泉から自身を切り離し、もう兄弟に奉仕しなくなるでしょう。自分は生きている、多分、役に立っている、むしろ良いことをしているとさえ感じるために、あなたはそれを利用します」(Benedetto XVI, Discorso ai seminaristi, 24 settembre 2011試訳)。

 黙想は、アビラの大聖テレジアも教えているように、その性質上、本質的には、みことばに深く心を捉えられるようにすることで、ますますわたしたちの生活の一部となることを求めておられるイエスとの真の出会いが実現するよう、主と心を通わせることにあります。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録 3,20)。あなたの富のあるところに、あなたの心もあります。

 聖人たちは、黙想することは主との愛情に満ちた信頼関係を味わうことであり、主に喜ばれることを理解し、認識し、受け入れるために、わたしたちの考えや計画を超えることであると教えています。

 教皇フランシスコはこの点について、次のように強調しています。「あなたの人生を用いて神が世に伝えたいと望まれることば—それはイエスというメッセージです。どうかそれに気づいてください。それができるように、そしてあなたの尊い使命がくじかれることのないように、自分を変えていただきなさい。聖霊によってもう一度新たなものにしていただきなさい」(「喜びに喜べ」No. 24)。

 黙想において、わたしたちが体験するすべてのことは、心を照らし、清め、変化させる聖霊の炎にさらされます。こうして、黙想は「いのちを生みだすもの」、すなわち、そこにわたしたちの内面と周囲に実りを与える 照らし、変容させる真の出会いがあります。その結果、霊的な飛躍、つまり、みことばの受肉と同じように、足が地に着いた地道な霊性が生まれます。

 この体験において、存在のさまざまな側面を調和させる一致の恵みが輝き、わたしたちを愛してくださる方との親しさから生まれ、成長していく観想的な見方が顕著になり、神の視点から自分自身、状況、人々、現実を注意深く観る力に気づきます。このようにして初めて、わたしたちは、神のみ心に従い、カリスマに忠実な具体的な選択をすることができる健全な識別力を持つことができるようになります。

 エマオの弟子たちのように、わたしたちの心が、時として他の興味や関心によって重苦しくなっているとき、どうすれば神の視点から現実を見るようになるのでしょうか。

 教皇フランシスコは、「どのようにするか」、その方法を教えてくださいます。「彼らの盲目さの根源、それは、ねじれた鈍い心です。 そして、心がねじれて鈍くなっている時、人は物事が見えません。物事は曇って見えます。ここにこの至福の知恵があります。観想するためには、自分自身の内面に入り、神のための場所を空ける必要があります。なぜなら、聖アウグスティヌスが言うように、『神はわたし自身よりも、わたしにとって親密な存在です』。」(一般謁見 2020年4月1日試訳)。

 わたしたちは、個人の、共同体の黙想と祈りにおいて、イエスの使徒、弟子として成長します。すなわち、わたしたちはこの学び舎で、青少年が主と真に出会うよう、神の国のため、愛と行い、兄弟的交わりの中で養成されます。

 

わたしたちの全存在の沈黙の中で

 わたしたちの会憲39条は、黙想は神との内的対話の重要で不可欠な時であると強調しています。

各自は毎日半時間、

それを良く果たすように特に努める。

「耳を傾けるおとめ」マリアに倣って、

全存在の沈黙のうちに、

キリストの似姿となるように

わたしたちを徐々に導き

兄弟的交わりを強め

使徒的熱意を燃え立たせてくださる聖霊の力に

自己をゆだねる。

 

 そして、わたしたちの会則は、各共同体が計画を立てる際に、それぞれの時間割に応じた毎日の祈りの方式についても話し合い、それが使命の要求と両立できるようにすることが重要であることを繰り返し述べています。わたしたちの霊性の強みの一つは、まさに黙想です (規則 25 を参照)。

 イエスを、愛の中で『知ること』ができます。従って、マードレ・マザレロもまた、心の沈黙のうちに潜心するようわたしたちを招きます。イエスの心の中で、心からの祈りを育むことを絶え間なく勧めています。主とともに過ごすことに困難を示す人々に対して、「主はあなた方のことを理解してくださるので、あなた方の方言でも構いませんから話してごらんなさい」と言っていました。祈りや黙想において大切なことは、主との個人的な関係、つまり愛の対話を築くことです。

 だからこそマードレ・マザレロは、友人や家族に話しかけるように、親しみを込めて神に語りかけ、心から自然に湧き出るものを表現することを勧めたのです。手紙の中にも、「聖書的な心」、そこからしか本当の黙想的な態度は生まれないという内面性への言及が見られます。

 マリア・ドメニカは、しばしばそれを想い起しています。「心から祈ることが必要です」(手紙29、47、51)、「心から主を愛しなさい」(手紙23)、「心をこめて働くことです」(手紙22)、そして何よりも「イエスのみ心のうちに」と。

 思春期から青年期にかけての平凡な生活において、マインは精力的な、しかし良くまとまり、統率された勤勉な内面性のある使徒職のうちで成熟しました。ペスタリーノ神父の仲介とフラッシネッティ神父の教えを通して、マインは本物の霊性の源泉に触れ、「黙想の技術」を学びました。

 彼女の祈りの歩みとなるヴァルポナスカの小さな窓からのまなざしは、単純なまなざしの祈り、つまり、聖体を中心とした生活体験によって豊かにされた熱心で継続的な観想となりました。

 この観想的なまなざしは、現実全体、特に複雑な人間の現実、その教育的で母性的な配慮に委ねられた人々を見抜き、識別の能力となります。それは、サレジオ霊性の典型である祈りの精神であり、創立者によれば、素朴さのうちに、また日常生活の疲れのうちにも神の現存を体験することにあります。(M. E. Posada, Diventare oranti. Itinerario di preghiera di Maria Domenica Mazzarello, in «Quaderni di spiritualità salesiana 1», Nuova serie1, Roma, 2003, 71-79 参照)。 

 

 

ドン・ボスコにおける黙想

 ドン・ボスコは良い出版物に気を配り、多くの著作を残していますが、彼の数多くの著作の中に黙想に関する具体的な文書は見当たりません。しかし、出版された、あるいは出版されていない著作の一部、また、彼がサレジオ会員に絶えず与えていた示唆の中に、彼の考え方を理解できる確固とした概念に遡ることができます。

 創立間もない修道会の始めの頃、トゥロファレッロでの黙想会(1866年)で使われたドン・ボスコの自筆メモには、次のように書かれています。「黙想はいつもすること。短くても、あるいは長くても」。「主への奉仕に身を捧げた人は皆、念祷、口祷、射祷による祈りを絶えず行っていた」と。

 ドン・ボスコにとって、祈りは修道者の生活を強める糧を表します。「したがって、信心業を熱心に順守している限り、わたしたちの心はすべての人と調和し、サレジオ会員が明るく、自分の召命に喜んでいるのを見ることができます」と、会憲の序文に書いています。「黙想、霊的読書、毎日の聖体訪問、ゆるしの秘跡、ロザリオの祈り、金曜日の小斎を怠らないように細心の注意を払う。これらの実践の一つひとつは、個別的には、大したことではないように思えるかもしれないが、それでも、わたしたちの完徳と救いという偉大な建築に効果的に貢献します」。

 1882年、ドゥカット神学生は、ドン・ボスコがその年に行った黙想会中の講話を書き写しています。そこには、「親愛なる兄弟たち、黙想は単に大切であるだけ、役に立つだけでなく、わたしたち修道者にとっては必要な信心業であると申しあげます。」と書かれています。(参考文献 La pratica della meditazione nella preghiera dei Salesiani di Don Bosco. Atti del Seminario sulla Meditazione Salesiana. San Callisto – Roma, 10-12 maggio 2018 a cura di Giuseppe Buccellato SDB, Roma 2021より)。

 親愛なる姉妹の皆さん、このチルコラーレは、わたしと総評議会の中で、視察担当評議員の公式訪問の報告や、時には管区長たちとの出会いによって明白になったある種の懸念から生じたものでもあります。事実、ある共同体では、時間がないために黙想をしなくなり、使徒的な仕事がひっ迫している、適切な方法が見つからないなどの理由で、わたしたちの祈りから黙想をカットすることが容易になっているという事実が指摘されています。

 始めから、わたしたちの一日を中身のないものにすることを、一体、わたしはどうして受け入れることができるでしょうか。おそらく、時間がないこと以上に、正当な理由を見つけられず、あたかもそれが当たり前であるかのように、創立者と会憲によって示されたわたしたちのサレジオ的な奉献生活の基本的側面をないがしろにしてしまいます(第39条参照)。わたしは、わたしたちの一日のうちで最高の時間を神のために確保すべきであると確信しているでしょうか。また、これは、ミサ聖祭、黙想、個人的なー共同体の祈りの時間ではないでしょうか。

 わたしたちは、イエスに対する魅力を失いかけているのでしょうか。わたしたちは、主との日々の出会いの代わりに何を置くのでしょうか。もしわたしたちが黙想をおろそかにするのでしたら、どうして青少年に黙想の方法を教えることができるでしょうか。時としてあることですが、なぜ青少年たちはわたしたちと共に成長した後、神のみことばや黙想の深い体験をするために、他の修道会や霊性運動を探すのでしょうか。4月26日にモザンビークで催される「世界共同体感謝の日」に備えての贈り物としても、共同体として分かち合うことができるような答えを見出すことができるならこんな嬉しいことはありません。

 現在、わたしたちが置かれている場所、状況を照らす『光』であるため、復活の喜びがわたしたち皆の中に輝き渡りますようにと願いながらこのチルコラーレを終わります。復活されたお方の光だけが、今日、緊急かつ切実な必要性に迫られている人類家族に希望の一縷を開くことができます。

 4月28日(日)、神のしもめSr. アントニエッタ・ボーム(1907-2008年)の列福と列聖調査の教区段階が終了することを喜びのうちにお知らせします。わたしたちの会、サレジオ家族、そして教会に聖性の実りが無くならないようにして下さる主に感謝しましょう。わたしたちはさらに深め、列聖に向かっているラウラ・ビクーニャとFMAの執り成しを求め続けましょう。彼女たちは、活動と観想を結び合わせる日毎の訓練において、わたしたちを導き、励ましてくださいます。

 皆様お一人ひとり、ご家族の皆様、教育共同体とサレジオ家族の皆様、そして、わたしたちが心にかけている青少年に、聖なる復活祭のお喜びを申し上げます。

 サレジオ会総長アンヘル・フェルナンデス・アルティメ枢機卿に、4月20日の司教叙階に向けての祈りに合わせ、特別なご挨拶を申し上げます。世界中で平和の恵みを求め、戦争、暴力、不正、貧困によって深刻な試練にさらされている地域の共同体に、祈りと援助による支援を続けて参りましょう。

 すべての人びと、とりわけ子どもたち、若者、そして困難な状況の中に生き、よりよい穏やかな未来を待ち望む家族を、復活された主の御母、聖マリアに委ねます。すべての人が主の復活を喜び祝うことができますように。

 

ローマ 2024年3月24日

 

                                             皆様を愛するマードレ