ページのトップへ

サレジアン・シスターズの聖人たち

  • 聖ヨハネ・ボスコ司祭 画像

    聖ヨハネ・ボスコ司祭

    1815年8月16日、イタリアのカステルヌォーヴォ、アスティで誕生。

    ヨハネは母から、信仰と福音の教えの手ほどきの一貫した教育を受けた。わずか9歳で、彼は一つの夢から、自分の使命が青少年教育に献身することにあると直感する。

    少年の頃すでに、祈りや宗教的教えと遊びを交互に取り入れて、仲間たちを楽しませていた。1841年、司祭に叙階され、「わたしに霊魂を与えてください、他のものは取り去ってください」を生活の信条として選び、オラトリオを創設し聖フランシスコ・サレジオの保護のもとにそれを置き、より貧しい青少年の間で、自分の使徒職を始めた。

    彼は、理性・宗教・慈愛に基づいた独自の教育スタイル、予防教育法(Sistema Preventivo)と、司牧的実践をもって、少年や青年たちを、神の愛に成熟させ、兄弟たちをキリストに出会わせ、信仰へと教育し、諸秘跡の祭儀に参加させ、使徒職や職業を身につけさせた。彼の教育法の多くの実りの中で、最も美しい成果として、聖ドメニコ・サヴィオ(15歳)がきわだっている。

    彼の疲れを知らない活動とその成果は、絶え間ない「神との一致」と、彼が自分の全事業の霊感の与え主、支えであると感じていた扶助者聖マリアへの絶大な信頼によるものであった。また、彼の子どもたち、サレジオ会員に、堅固なキリスト教的徳の上に基礎を置き、「労働と節制」を一つに統合させ、簡素な修道生活のスタイルを遺産として与えた。

    彼は、聖フランシスコ・サレジオ修道会を興すかたわら、少年たちの中から、自分の事業の有能な協力者を探し、また、聖マリア・ドメニカ・マザレロと共に、サレジアン・シスターズ(Istituto Figlie di Maria Ausiliatrice)を、そして、最後に、善良で勤勉な男女が彼の事業に協力する、教会の使徒職の非常に新しい形式の先駆けとなったサレジオ協力者会を創立した。

    1881年1月31日の彼の死から100年目に、教皇聖ヨハネ・パウロⅡ世は、彼を「青少年の父・師」と宣言され、そして「特に、自らをドン・ボスコの霊的子どもだと思い、慕っているすべての人びとから、誉れと嘆願を受けることでしょう」と言われた。記念日は1月31日である。

  • 聖マリア・ドメニカ・マザレロ 画像

    聖マリア・ドメニカ・マザレロ

    1837年5月日、イタリアのアレッサンドリア、モルネーゼで誕生。

    家庭で堅固な信心、疲れを知らない勤勉さを培われ、上長としての指導において発揮された良識の深さと、実践的センスにぬきんでていた。15歳で「無原罪の聖マリアの少女会」に入会し、村の少女たちの間で使徒職を始める。23歳の時にかかったチフスで重態に陥ったことが、彼女の中に深い精神的影響を与えることになる。というのは、身体的もろさの体験が、彼女の神への委託をより深め、働き、祈り、神への愛を少女たちに教えるために、洋裁教室を開くよう促すことになったからである。諸秘跡への熱心な参与と、聡明で神に照らされたペスタリーノ神父の指導のもとで、霊的生活に大きく躍進していった。

    1872年ドン・ボスコは「Figlie di Maria Ausiliatrice(サレジアン・シスターズ)」を創設するために彼女を選んだ。上長としての彼女は、有能な養成担当者、霊的生活の教師であることを証明した。

  • 聖フランシスコ・サレジオ

    1567年、フランスのサヴォイアで誕生。

    パリで哲学と神学を勉学し、またパドヴァで教会法と民法を学び、法学博士号を取得。司祭叙階後、シャブレーのカルヴァン教徒をカトリックの信仰に再び導き入れるよう司教に依頼される。ジュネーブの司教となってから、アンヌシーに居住し、広く説教による活動をくり広げ、トレント公会議の改革路線を実現した。気高い明敏な精神、博学なヒューマニスト、偉大な霊的指導者であった。神の愛における聖性の本質を教示し(『神愛論』)、修徳神学の道をすべての人に開いた(『信心生活の入門』)出版物の大切さを見抜き、学問を深く掘り下げるために優れた知識人を集め、専門的養成を若者たちに与え、導くためのアカデミーを設立した。聖女ジャンヌ・ド・シャンタルと共に、「聖母訪問会」を設立し、指導した。1622年12月28日、リオンで死去。翌年1月24日、アンヌシーで彼の葬儀が行われたので、その日が彼の祝日とされる。

    1665年に列聖され、1877年に教会博士と宣言され、1923年カトリックのジャーナリスト、著作家たちの保護者と任命された。ドン・ボスコは、フランシスコ・サレジオの使徒職、彼の慈愛にあふれた善良さに深く感銘し、かつ啓発され、この聖人をサレジオ会の保護者とすることを望んだ。

  • 聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士

     1515年3月28日 テレジアは、スペインのカスティリア州のアビラに生まれた。19歳のとき、高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、信仰に対する疑問などに襲われた。しかしこの苦しみをとおして、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をした。

     1562年、本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めた。彼女の改革に反対する人びとも多かったが、十字架の聖ヨハネなどの援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック教会改革の原動力ともなった。

     多くの本を書いたが、中でも自分の神秘生活を著わした『完徳の道』、『霊魂の城』は、今もなお多くの人びとに読まれている。1582年10月4日帰天。1622年3月12日に教皇グレゴリオ15世によって列聖。  1970年9月27日に教皇パウロ6世によって教会博士にあげられた。記念日は10月15日である。

     本会の創設当初から、ドン・ボスコは、奉献生活の観想と活動の両面を統合した奉献者の模範として、聖テレジアを本会の保護者とした。

  • 福者ラウラ・ビクーニャ 画像

    福者ラウラ・ビクーニャ

    1891年、チリのサンチアゴで誕生。 

    父が急逝したため、母は二人の娘を連れて、アルゼンチンに移住した。ラウラは、1900年にサレジアン・シスターズの学校に編入学し、翌年、初聖体を受けた。その時、ドメニコ・サビオのように、「全身全霊で神様を愛すること、節制し、罪を犯すよりは死ぬこと、イエス様を人々に知らせ、イエス様への侮辱を償うこと」という決心を立てる。母親が、内縁の妻ということを察知した彼女は、母の回心のために自分自身を主にささげ、苦行を倍加し、指導司祭の承諾を得て、福音的勧告の私的誓願を立てた。数々の犠牲と病苦によって消耗しきったラウラは、最期の夜、「お母さん、わたしは死にます……。わたしは……、ずいぶん前に、わたしのいのちをイエス様にささげ、あなたが神様に立ち帰ることができるようにお願いしました……。お母さん!死ぬ前に、回心したあなたを見ることができたら、どんなにうれしいいことでしょう……」と打ち明けた。1904年1月22日の夕方、願い続けたその恵みを目の当たりにし、喜びに包まれてラウラは13歳のいのちを神にささげた。

    彼女の遺体は、アルゼンチン、バイア・ブランカのサレジアン・シスターズの聖堂に安置されている。清純で孝愛に富み、いけにえとなった感嘆すべき少女、ラウラは、1988年9月3日、アスティのカステルヌオヴォ・ドン・ボスコ「青少年の至福の丘」で、教皇聖ヨハネ・パウロⅡ世によって列福された。

    記念日は彼女が帰天した、1月22日である。

  • 福者マグダレナ・モラーノ 画像

    福者マグダレナ・モラーノ

    1847年11月15日、トリノのキエリにて誕生。

    マダレナ・カテリーナ・モラーノは、若い頃から、教区の幼稚園の小さい子どもたちの間で助手として教員の見習いを始めた。これが、全生涯、特に教員免許状取得後の彼女の生涯への準備となったのである。彼女の教師と要理教育の豊かな体験は、初聖体のときに行った全面的奉献への願望を30歳で実現させ、1879年に誓願を立て、サレジアン・シスターとなり、「聖性の域に到達するまで生きる」という恵みを、主に願い求めた。

    1881年、シシリア行きを任命され、そこの孤児たちと市民階層の若者の間で、豊かな実り多い教育事業を始めた。「地域に一つのまなざしを、そして天には十のまなざしを」絶えず向けながら、シシリア島の中のあらゆる所に、学校、教会学校、寄宿学校、作業所などを開設した。また管区長に任命され、彼女の周りにかもしだされる交わりの雰囲気に魅了された多くの新しい召命のために、養成担当の責務をも引き受けることになった。彼女の数多くの使徒職は、要理教育の全事業を、彼女の福音的先取の気構えにゆだねる司教によって、評価され激励されていた。

    癌が彼女をむしばみ、1908年3月26日、「人間性の偉大さの喪失によって、恵みの偉大さを妨げることのないように」との目標をかかげて生き抜いた完全な統合の生涯を、カターニャで閉じた。

    1994年11月5日、教皇ヨハネ・パウロⅡ世は、当地で、福者と宣言され、彼女の地上での誕生日、11月15日が記念日となった。

  • 福者マリア・ロメロ・メネセス

    福者マリア・ロメロ・メネセス

    1902年1月13日、ニカラグアのグラナタで誕生。

    父はスペイン系で財務大臣を務めていた。裕福な家庭に育ち、祈りと貧者への愛にすぐれていた。

    音楽と絵画の才能に輝いていた彼女は12歳のときサレジアン・シスターズの寄宿舎に入る。そこで、青少年教育の偉大な使徒、ドン・ボスコを知り、ひきつけられ、その精神に共鳴するようになった。人生の理想を具体的に彼女は、最初は漠然としていたが、やがて、それは、明確な輪郭を描き始め、ますます熱意に燃えるものになっていった。

    19歳でサレジアン・シスターズに入会し、修練期中に神秘的な体験をする。立願後、1931年、コスタリカに派遣され、疲れを知らない献身によって社会福祉事業を活性化していった。福音と教会への忠実な彼女の行き方は若者たちの心をひきつけ、宣教への熱意を植えつけた。

    サン・ホセの近くの村で、身寄りのない子どもたち、生活に苦しんでいる家族のために働いた。さらに、事業家や裕福な人びとを、これら困窮者に目を向けさせ、摂理と信仰による救済のプロジェクトのために、協力を仰いだ。人びとの貧しさは、彼女を駆りたたせ、解決策を講じさせた。カトリック・アクション会の創設、貧者への援助物資の配布、保育園の設立、無料診療所の開設など、休むまもなく貧しい人のための活動に専念し、この世の財産の公平な分配に尽くした。

    住む家がなく、都市周辺での生活を余儀なくさせられた人びとのために、住まいを確保し、傷ついた心のケアのための教育的配慮も行った。これらの人びとが情緒的に安定し、人間としての品位を回復する援助を行った。これらの使徒職は、いまもなお、協力者によって引き継がれている。

    彼女の働きを支えたものは、イエスへの深い愛、聖母信心を広めること、子どもや貧しい人への愛、疎外され苦しむ者への福音の伝達に対する情熱であった。
    このように、「すべての人にすべてとなり」自分を忘れた生活は、観想と活動の一致をもたらし、澄み切った目で自然と人を見つめ、神の存在を見いだしていた。
    1977年7月7日、初めての休息をとるかのように、ニカラグアで永遠の安息に入った。帰天後、遺体はコスタリカに運ばれ、そこで行われた葬儀には多くの参列者が集まり、彼女の聖性がたたえられた。

    記念日は彼女が帰天した、7月7日である。

  • 福者カルメン・モレーノ、アンパーロ・カルボネルと スペインの同志殉教者 画像

    福者カルメン・モレーノ、アンパーロ・カルボネルと スペインの同志殉教者

    シスター・カルメン・モレーノとシスター・アンパーロ・カルボネルは、非常に単純だった。今日、神に答えるという約束を、その日その日の任務に物惜しみせず、準備のできていることに示されている。
    カルメン・モレーノは、1885年、ヴィッラマルティンの裕福な家庭で生まれ、アンパーロ・カルボネルは、1893年、ヴァレンツァの貧しい農家に生まれる。カルメンは、父の死後、しばらく生活した学校で、サレジアン・シスターを知った。アンパーロは、ヴァレンツァの同じ町で、おそらく働いていたサレジアン・シスターズを知った。

    カルメンの生活は、事業の管理者をしたり、共同体のアニメーターをしたりして助言を行うことであった。

    より熱烈な数年間は、カミーノのヴァルヴェルデで体験したことによるのは明らかである。それは、そこで小さな聖女、エウゼビア・パロミーノ、単純な調理係、生まれながらに好感がもてるだけではなく、奇跡をいただく恵みつめぐみをも捧げた聖女を見いだしたからである。

    1936年、シスター・アンパーロとシスター・カルメンは同じ共同体へ彼女に会いに行った。アンパーロはいつも何でもやる女性として、カルメンは副院長として。
    バルセロナの聖ドロテアの家は、財政面の支援だけではなく、チョピテアのドロテア婦人の霊的な分かち合いに満ちた援助をもってドン・ボスコの望みで創設された。ドロテア婦人は、社会的階層では大変な資産家だが、福音的スタイルに満ちた日々の生活スタイルではカルトジオ修道会士のようにより貧しい生活を送っていた。

    1936年8月、内戦の真っ只中に、ドロテア婦人は、その家が危険にさらされていることを知らせに行った。学校に残っていたシスター約70名、12名の修練者、10名の少女たちは、これ以上早く逃げられないとあきらめていた。近所に親戚や頼れる友人のいない数人の修道女は、プロテスタントの信者でシスターと大変親しい、ドイツ人紳士が住んでいるヴィッラ・ジャスに避難した。

    8月19日だった。翌日、二隻のイタリア船、そこには、不安をつのらせ困難のさなかにいる、多くの修道女の席があるはずの船が、バルセロナの港を出港する。シスター・カルメンとシスター・アンパーロは残留することを決めた。癌の手術後間もないシスターを看病するためだった。いっしょに出発するはずだった…。9月1日の夜、暴力の足音が道に鳴り渡る。シスター・カルメン、シスター・アンパーロ、シスター・カルメン・エクサマル、そして退院したばかりのシスター(結果的に置き去りにする)は逮捕された。9月6日の明け方に、看守は独房の入口を開け、海辺の競馬場へ犠牲者たちを連行する。殺人者は連発射撃をして去って行った。二人の遺体は地面に放置されたままだった。午後1時に最期の、ぞっとする葬儀を行った。

    遺体は検視するために遺体安置所へ運ばれた。看守は合法性の必要を感じており、彼らの資料に関しては、規則に準じて写真を添えた診断を残すことを望んだ。

    私たちにとっては、彼女たちの犠牲の資料として残る。シスター・カルメンとシスター・アンパーロの遺体が最終的に何処へ葬られたかは不明である。しかし、彼女たちが殉教者であるという名声はすぐ生まれ、広まり、列福調査に導かれる瞬間に至るまで続いた。2001年3月11日、スペインの他の殉教者と共に、ヨハネ・パウロⅡ世によって列福された。記念日は9月22日である。

  • 福者エウゼビア・パロミーノ

    福者エウゼビア・パロミーノ

    1899年12月15日、スペインのカンタルピーノで誕生。
    非常に貧しい生活を強いられたが、家庭にはキリストの平和が満ちあふれていた。幼いエウゼビアは物質的な食べ物には恵まれなかったが精神的な喜びを味わっていた。

    母親が夕食を準備する間、父親は娘たちに、神の教えを説いていた。しかし、父親の怪我により収入が途絶えたとき、カスティリア地方の寒さに耐えるため、父親と二人で、村から村をまわり、施しをうけるため戸口に立つまでの貧しさに追いやられた。

    8歳から12歳まで、近所の家庭のベビーシッターと家事手伝いとして、さらには、サラマンカ市では家庭教師として雇われるが、やがて、ホームシックにかかり、家に帰る。彼女は、再び、貧しく見捨てられた老人たちのヘルパーとして雇われて生活しているうちに、サレジアン・シスターズのオラトリオに行き、祈っているとき、聖母の招きを聞く。シスターズの好意により家事手伝いとして住み込むことになる。18歳のときのことである。

    やがて、召命を感じ、さまざまな困難や試練にあいながら、奉献生活の道を準備した。1924年、誓願式の数か月前、地下室で転び、手にしていた瓶が割れ、腕の動脈切断と出血多量のためにひん死の状態に陥った。エウゼビアの修道生活への強い願いは聞き入れられ、延期された誓願は、8月に受け入れられた。

    立願後、ヴァルヴェルデに送られ、修道女としての生活をそこで過ごすことになった。院長と4人の同僚を助けて、家事のさまざまの用務をこなし、オラトリオの責任も果たした。子どもたちから、平凡でおとなしいと思われたエウゼビアは、非凡な魅力を輝かせて、少女たちの心をとらえていった。

    このころから、奇跡を行う恵みが与えられた。深い霊性がそれに伴い、聖母の娘は「マリアの奴隷」になることを自らの謙そんな行いで示した。そのころ始まったスペインの内乱に際して祖国の救いのために、いけにえとして神に身をささげた。それに呼応するかのごとく、エウゼビアは侵入者に投打されて、持病のぜんそくも併発し、3年間の長期にわたり激痛に悩まされた。その病床を訪れた院長のカルメン・モラノに殉教を予言した。

    1935年2月10日の早朝、晴れやかな表情を見せて、36歳の苦難に満ちた生涯を神にささげた。

    2004年4月25日、教皇聖ヨハネ・パウロⅡ世によって福者の列に加えられた。
    記念日は2月9日である。

  • 福者マリア・トロンカッティ 画像

    福者マリア・トロンカッティ

    1883年2月16日、イタリアのブレッシァ、コルテーノ・ゴルジで誕生。

    両親の暖かい愛情に包まれて、田舎の明るく、活動的な大家族の中で成長し、弟妹の世話をした。

    教区のカテキズムや秘跡に熱心で、青年期のマリアは修道生活の召命に開かれるキリスト教的な深いセンスに成熟する。しかし、父親や教区司祭への従順のために、サレジアン・シスターズへの入会を願う前に成人することを待って、1908年、ニッツア・モンフェラートで初誓願を立てた。

    第一次世界大戦の間(1915-1918)、シスター・マリアはヴァラッツェで看護士養成コースに通い、軍病院の赤十字看護士として働く。それは、東エクアドルのアマゾンの密林での彼女の長い宣教活動でかつてないほどの成果をあげる体験となる。1922年に、実際にエクアドルへ出発し、森の動物から、歩いて渡る川の渦から、あるいはもろい植物のつるで作られた橋の上で、または原住民の肩の上で起こる危険をも顧みない、あらゆる種類の危険の真只中に、福音宣教の困難な仕事を始める他の二人の姉妹と共に、原住民シュアル族の中に送られた。

    マーカス、セッヴィッラ・ドン・ボスコ、スクアは、シスター・マリア・トロンカッティの活動によって花開いたいま尚「奇跡」の家である。看護士、外科医、整形外科医、歯科医、麻酔科医など。しかし、何よりもカテキスタ、福音宣教者、信仰、忍耐、兄弟愛の素晴らしい資質に富んでいた。

    シュアル族の女性の開発のための彼女の事業は、若い夫婦の個人的な選択の自由に初めて養成された、新しいクリスチャン・ホームのおよそ100世帯に開花する。
    シスター・マリアは、1969年8月25日、スクアでの飛行機事故で亡くなる。彼女の遺体は、モロナ管区(エクアドル)のマーカスに安置されている。

    神の僕、シスター・マリア・トロンカッティは、2008年11月8日の通達をもって、尊者と宣言された。
    2012年11月24日、にエクアドルで、教皇の代理、アンジェロ・アマート枢機卿の手によって、列福式が行われた。記念日は8月25日である。

  • 尊者テレーザ・ヴァルセ・パンテリーニ 画像

    尊者テレーザ・ヴァルセ・パンテリーニ

    1878年10月10日、ミラノで誕生。

    パオラの聖フランシスコに捧げられた教会で洗礼を受けた。非常に裕福な家庭に属していた。父、ジュゼッペは、まだ若いころ、エジプトに移住し、イタリア系のブルジョアの娘、ジュゼッピーナ・ヴェッリーニと結婚した。1882年、ジュゼッペはイタリアに恒久的に移住した。最初はミラノ、その後フレンツェ。1890年、ジュゼッペは妻と3人の子ども、長男イタロ、テレーザ、ジュゼッピーナを残して他界した。父親の死は皆にとって、特に父との絆が強かったテレーザにとって大きな痛手となった。長男、イタロのローマの大学への入学に伴って、家族全員が首都ローマに移転した。母親は子どもたちに最高の教育を受けさせていた。

    前からテレーザはその社会的地位にふさわしい態度を身に着けていたが、福音的な決然とした基準に基づいた深い霊性を培っている。長い祈りのとき、貧しい人びとへの強い感受性、際立った教育的感受性を生きるように彼女を導く神への優先的な愛。奉献生活への招きを感じ、母親の死後、多くの困難を克服して、1902年2月2日にサレジアン・シスターズに入会した。テレーザは22歳。「わたしは、揺るがない決意をしました」と、修道女になる意思決定を兄のイタロに書き送っている。

    修練期の時から、テレーザは、ローマのトラステヴェレで修道生活の大半を過ごしている。ボスコ・パラッシオとルンガーラ通りの家で地域のより貧しい少女たちをオラトリオで迎え、金持ちの家の小さなクリーニングをしていた。共同体の修道たちの間で、シスター・テレーザは、彼女の微笑と優しい態度に魅力を感じる青少年からとくに愛されていた。この環境で働き始める時には不安定な健康状態だったが、犠牲を省みず、自分の過去を全く重要視することもなかった。

    修道院の貧困は、助けを求める必要性、施しを求めたいと思うこともためらわないように感じさせるものであった。そこで、テレーザは強い嫌悪を感じながらも、かつて自分も出入りしていた金持ちの門をノックするという、この屈辱的な任務から決して逃れなかった。テレーザは貧しい人びとに全面的に開かれた強い女性である。

    ドン・ボスコの例に倣って、彼女に信頼し、教養を高め、生き方を改善することをあらゆる方法で模索している青少年の思わしくない状況に具体的に一体となる。音楽のレッスンをし、演劇を作り、すでに重労働で疲れている少女たちに興味をひかせる余興を考え出す。

    しかし、1907年に、情け容赦もなく突然病気が襲った。同年4月、シスター・テレーザは治療のためにピエモンテに送られた。期待させることなく、病気は回復しないことを悟る。彼女自身、信じられないほどのユーモアをもって言っている。「主がわたしを助けてくださいましたので、わたしは三つのことに準備ができています。死ぬこと、長く病気でいること、回復すること」。そして、一瞬微笑んで付け加える、「そうね、三つのうち一つが当たります。そうでしょう?」

    1907年9月3日、トリノのサレジアン・シスターズの修道院でその生涯を閉じる。彼女自身が予見していたように。

    テレーザ・ヴァルセ・パンテリーニ、聖母マリアにならって、日々の具体的な事柄にその人生の全てを賭け、神と他者に全面的に捧げた、貧しく、自由な若い女性。大きな夢をもっていた。中国の宣教に出かけることを強く望んでいた。彼女の使徒的な望みを実現するかのように、サレジアン・シスターズは、今日、宣教活動を、とくに彼女に委ねている。

    1982年7月2日、英雄的徳が公に認められた知らせをもって、彼女は尊者と宣言された。

  • 神の僕ラウラ・メオッツィ 画像

    神の僕ラウラ・メオッツィ

    1873年1月5日、フィレンツェで誕生。

    高貴で裕福な家族は、ラウラが医学の勉学を終了するローマに、早くから移転する。ラウラはよく祈った。サレジオ会員だった霊的指導者が、ドン・ボスコの修道会に呼ばれていると彼女に言うと、一晩中祈った。

    1898年にサレジアン・シスターになり、とくに1921年までシシリア島で働いた。ポーランドに初めてサレジアン・シスターズを派遣する時には責任者に選ばれた。特に、第二次世界大戦中の惨事や極貧の中で、「小さいお母さん」は、勇気と愛の歴史をすべて生きた。彼女の活動力は絶え間ないものだった。たとえ、極度な窮乏にあっても、あらゆる必要のために家を開くことができた。身寄りのない見捨てられた子どもたちのために宿泊施設を開設する。それはやがて少女たち、学校、作業所、志願者、修練者のための施設に発展し、亡命者、迫害された人、病人、難民のために…。マードレ・ラウラはすべてのことに便宜を計らうことができた。

    同時に、彼女は祈り、苦しんだ。1938年から1945年に、ポーランドの長く激しい苦しみと迫害を生きた。「イタリアに郷愁を感じませんか」とある人が彼女に質問した。すると、「私は二つの祖国をもっています。イタリアとポーランドです。ですから、こちらをもっと愛していますと言えません。」と答えた。ウィルノから、特別列車で、シスターたちと104名の少女たちが出発するはずだったが、列車には許可なしで多くの少女を隠す。マードレ・ラウラはすべてに「はい」といった。管区長は、彼女は銃殺されるかも知れない、と心配した。しかし、彼女は「恐れることはありません。私は祈ります」と言う。16日間の旅行は、何事もなく無事に通過したが、それは、真に奇跡だった。

    終戦と同時に、ソビエト共和国のものになった領地を手放さなければならず、振り出しに戻った。マードレ・ラウラは新たに始める。12の家を再び開いた。ポルゲツェビェンに、女性と子どもを撲滅するためにドイツ軍に使われた古い城に、修練院がふたたび誕生した。何処でも、活気と喜び、微笑を取り戻した。
    しかし、そんな時はいつも、もっと疲れを感じていた。

    シスターたちに見守られ、皆の祈りに支えられて、1951年8月30日に亡くなった。彼女の遺体はポグレツェビエンに安置されている。

    神の僕シスター・ラウラ・メオッツィの生涯と徳に関する調査は、1986年から1994年に、ポーランドのカトヴィッツェ教区内で行われた。