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亡くなられた姉妹のおもかげ Sr.山田

シスター山田フミ子  マリア アッスンタ

帰天年月日

2024年9月24日

場所

東京都

修道生活

67年間の修道生活

略伝

 Sr.山田フミ子マリア・アッスンタは、1932年10月16日、朝鮮の慶尚(けいしょう)で、6人兄弟姉妹の次女として生まれました。お父様は海軍で幼い頃は海軍の官舎に住んでいたようです。家族のことははっきり分かりませんが、「三女の妹が二歳で、急性肺炎で亡くなった時の両親の悲しみを見て、深い親の愛を知った」と書いています。両親や家族のことについて、それ以上書き残したものはありませんが、姉妹たちに語った思い出などによると、お父様は海軍の重責を担い、戦争という厳しい状況のなかにあっても部下や仲間を大事にし信頼される方であったこと、お母様も、奉仕のために捧げ尽くす方であったことが分かります。いつ日本に帰国したかは分かりませんが、戦争中は、父方の実家があった米沢市に疎開し、そこで小学校、女学校を卒業し、その後、地元の個人医院の受付で事務員として勤務し、1年半ほど後、赤羽の星美学園の児童養護施設(現在の星美ホーム)で2年間ほど働きました。その間、1951年8月15日、被昇天の聖母の祭日に、18歳で洗礼を受け、マリア・アッスンタの霊名をいただきました。受洗の動機として次のように書いています。「 9歳で母を亡くし、10歳で父が戦死し、終戦後は経済的、精神的基盤がなくなり、この世には頼れるものがないことが身に染みてよくわかったこと」と。戦争によるいろいろな苦労、悲しみ、悩みを体験しながら人間にとって大事なもの、真実なことを求めて洗礼を受けたと言っていました。

 召命のきっかけについて3つのことをあげています。1つ目は洗礼を受けた時と同じ考えから。2つ目は一度しかない一生の最良、最善の生き方を考えたこと。3つ目はシスター方特に宣教女たちが子どもと関わる姿の奥にあるものを感じたこと。庶民的な温かさ、サレジオ的なものを感じたことが修道召命へと方向づけたようです。

 1953年1月に志願者として東京扶助者聖マリア修道院で入会し、養成の期間を経て、1957年8月5日、25歳の時東京扶助者聖マリア修道院で初誓願を立てました。20歳で入会したSr.山田にとっては、入会後、長上やシスターたちとの関係など困難を感じることもあったようですが、修練期には修練長であったSr.マルゲリータ・プロブストの修道生活の根底にあるものを知り、自分の召命の歩みを支えられた、と感謝を込めて書いています。

誓願を立ててから、生涯中、修道院の会計、幼稚園や学校、学校法人の事務、会計としてお金、物や建物の管理などに関わることを主な使命として生きたSr.山田ですが、祈りの時間を大切にし、その心はいつも 最高の宝、最高の価値、最高の方であるイエスに向かい、サレジアーナとして青少年の救いのためにという意向ですべての奉仕を捧げていました。まさに「縁の下の力持ち」として、その場の必要性のために日々、修道院、事業体のために全力を尽くしました。共に生活した姉妹たちは、「しっかり者、働き者、手を抜くことはなく、すべき仕事を責任をもって果たしていました」と言っています。

 長い年月の全ての活動的な奉仕を終え、年齢とともに健康が衰え、認知力も弱まり、2020年4月、調布聖ヨセフ修道院に異動し、静養の生活に入りました。言葉少なく、読書が好きで、身体的にはいろいろな病気をかかえていましたが、嘆くことなく、祈りのなかで静かに自己を捧げていました。

 入院先のベトレヘムの園病院からの電話で、すぐに管区長Sr.宮脇と院長のSr.川下が出向き面会はできましたが、穏やかな眠りのうちに、24日扶助者聖マリアの記念日の早朝、聖母のみ手に抱かれ、おん父の身許に召されました。享年91歳、67年の修道生活でした。