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亡くなられた姉妹のおもかげ Sr.大槇

シスター 大槙千鶴子 マリア・アンジェラ

 

帰天年月日

2024年12月7日

場所

東京都

修道生活

69年間の修道生活

略伝

 満州国安東県(あんどうけん)で6人兄弟姉妹の長女として誕生しました。2人の妹はサレジアンシスターズ、一人の弟はサレジオ会員となりました。戦前は満州、戦中は韓国に住み、彼女が12歳の頃、父を亡くしました。母は親戚のいる日本に6人の子どもを連れて帰国し三河島に住むようになり、その後子どもを残して病死しました。母親の遺言で子どもたちは社会福祉施設のあるFMAのシスターたちのところで生活するようになりました。1944年、太平洋戦争の戦禍を逃れ、静岡県清水市の星美学園、続いて山中に疎開しました。山中にいる頃、レティツィア院長様を通して、マリア・アンジェラの霊名で、洗礼の恵みを受けました。

 受洗について、当時の院長レティツィア院長様の影響が強く、「院長様から頂いた信仰です」と後々までも感謝していました。「初期の頃、レティツィア院長様が、夜、誰もいない畳の聖堂でひれ伏して祈っている姿を見た。その姿が忘れられない。」と。戦争中の貧しい生活の中で、宣教女や若く元気なシスターたちが、子どもたちのために生きる姿を身近で見ながら、サレジアンシスターとして生きる道を自分もえらぶようになりました。1950年1月31日、赤羽の扶助者聖マリア修道院に入会し、3年間の志願期、1953年ポストラート、修練期へと進み、1955年8月5日、21歳で初誓願を立てました。

 初期養成中の印象としては、修練長であったSr.プロブストの存在について次のように書き残しています。「プロブスト院長様が暗黙のうちに導いて下さり、その影響は大変大きい。理想的で、頭の切り替えが速く、『まっすぐな人だ』と感じた。無駄口はきかず、公平な方だ」と。こうして、理想の修道者の姿、修道精神をそこに見出し、それを自分自身のなかに育んでいきました。

 立願後は、赤羽の星美学園小学校、星美学園中学校で教えながら星美ホームの中高生のアシステンテ、1966年、大阪玉造修道院に異動し、城星学園中学高等学校で教鞭をとり、1974年に赤羽に戻り、星美学園短期大学寮のアシステンテ、星美学園中学校高等学校の教諭、1980年~1995年まで、星美学園中学校高等学校の校長として奉仕しました。若手の多くのシスターたちにとって、Sr.大槇は星美学園中学校高等学校時代の「校長様」であり、毎朝欠かさず行われた放送朝礼では知的、精神的な好奇心を引き出すような話しをし、広い世界観を感じさせ、青少年が自らの人生の道を堂々と歩いていけるようにしっかりとサレジアンの教育理念、方法を実践しました。また教職員が教育という使命に誇りをもち、園児、児童、生徒、学生と関わるよう励まし、法人の責任者としては、自ら対応すべきことは黙ってきちんと行い、皆が喜んで働く場にしようと、配慮していました。厳しい反面、心のやさしい思いやりのある人でした。管区評議員、学校法人明星学園と学校法人星美学園、学校法人調布星美幼稚園の理事長として奉仕しました。60年もの長い年月、宣教女、会員のサレジアーナとして教育にかける情熱、教育使命を通して人生を捧げた主イエスと扶助者聖マリアへの愛と信頼、姉妹たちとの関わり、支え合いのうちにその使命を生きました。

 高齢に伴い、体力も衰えきたため、調布聖ヨセフ修道院に移りました。周りの姉妹からしてもらうことにいつも「ありがとう」と声高々に感謝を表し自分は幸せ者だと繰り返していました。高齢に伴う症状が表れ診療ケアが必要になったため今年10月に慈生会ベタニアホームに入所しましたが、11月26日、Sr.大槇の容態が思わしくないとの連絡が入所先から入り、チャプレンの大倉神父様より、病者の塗油を授けていただき、その10日後、姉妹のSr.田鶴子、Sr.武子も見舞いに訪れ姉妹三人が再会を喜びました。そしてその日の夕刻、安らかに眠りにつきました。担当医による診断が翌朝になり、12月7日、午前10時47分、天のおん父のもとに召されました。享年93年、69年の修道生活を全うしました。