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召命共同体であることの責任

 No. 1043

 

召命共同体であることの責任

 

愛する姉妹の皆様

 わたしたちは教会生活の中で特別な時を過ごしています。先日閉会したばかりの世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会において、主の霊が臨在されたことを感謝しましょう。わたしたちは、シノドスのプロセスが終了したのではなく、それがわたしたち一人ひとりに委ねられていることを知っています。わたしたちが真の個人的、共同体的な回心として、日常的な歩みにおいて実行できるようにするためです。シノドスの目的は、文書を作成することではなく、「夢を植え付け、預言と幻を描き、希望を花開かせ、信頼を生み、傷をいやし、ともに関係性を編み、希望の夜明けを目覚めさせ、互いに学び合い、頭脳明晰で機知に富むことを作り出すことは、精神を照らし、心を温め、手に力を与える」ことだということです。」(教皇フランシスコ、若者に捧げられたシノドスの冒頭での演説(2018年10月3日)、『シノドス準備文書』32号より引用)

 シノドスはなかでも、「受け容れられ、宣べ伝えられるべき救いは、人間関係を通るものであることを明白にしました。それは共に生き、共に証しされます。歴史は、戦争、権力闘争、数知れない不正や虐待によって悲劇的に刻印されているように見えます。しかし、わたしたちは、聖霊がすべての人間の心の中に、真実の関係と真の絆を求める望みを置かれたことを知っています」(『最終文書』154参照)。

 これは、扶助者聖母会の召命には、家族的精神が浸透し、シノダリティのスタイルで福音宣教の教育的使命を志向して生きる交わりなしには考えられないということを、わたしたちに思い起こさせるものです。わたしたちの共同体は、喜びをもって主に仕え、神の国のために楽観主義と司牧的な愛をもって働くよう呼ばれています。わたしたちは、イエスに従うよう『呼び集められ』、『da mihi animas cetera tolle』の精神で青少年のために『遣わされた』女性の共同体です。

 サレジアンシスターズの最初の宣教地出発150周年に向けた準備の3年間の開始は、会全体にとって、感謝とともにわたしたちを原点に立ち返らせる力強い時です。このイベントは、イエスの福音の素晴らしさを宣べ伝える人々が必要とされる所ならどこでも、自らの人生の証しによって、世界のあらゆる場所で、わたしたちが宣教の使命を果たしていることを感じる望みを燃え立たせます。したがって、わたしたちは、現代のただ中にあっていのちを生みだす共同体となるよう求められています。一人ひとりが自分自身の中で、会の召命の豊かさという本来の新鮮さを呼び覚ますならば、わたしたちはそうなるでしょう。わたしたちがいのちを生み出せば生み出すほど、世界はより希望と新しいいのちで満たされるでしょう。

 

主に従うことの素晴らしさ

  このチルコラーレでは、わたしたちのアイデンティティの特定の側面を深めたいと思います。それは、第24回総会の優先課題の最初の選択であり、召命共同体であることへの明確な招きが見出されるところです。わたしたちは、サレジオ的召命の素晴らしさを共に証しし、わたしたちの生活から始まる新たな召命の情熱を生きる必要性を感じています。

 主はわたしたちに新たな責任を求めておられます。それは、カリスマをより目に見えるものとし、今日の状況においてカリスマを忠実に伝え、活性化させることに専念することです。

 自問してみましょう。今日、わたしたちが主に属している幸福を若者たちに明らかにする表現とは何でしょうか、と。マードレ・イヴォンヌ・ランゴアは、わたしたちの生活と使命の召命的側面を深めるため、2016年4月24日第960号のチルコラーレを出されました。これは非常に今の時代に合う考察ですから、わたしは、その文章をそのまま引用いたします。「召命の共同体とは、養成し、変化していく出会いのうちに、イエスと大勢の人々に開くことが出来、呼ばれたことの喜びを保ち続ける“召された”、共同体です。喜びは、第一に賜物ですが、福音的論理による責任でもあります。『ただでうけたのだから、ただで与えなさい』(マタイ10,8)とあります。

 召命は、生き方を活気づけ、宣教的なはずみをつける福音的、サレジオ的スタイルにおける関わりのダイナミズムです。ですから召命共同体は、召命の活性化のための活動を企画する場ではありません。これは必要なことではありますが、それよりも日常の関わりと使命の営みの中で、自分の召命をあかしし、喜びの伴う忠実さによって召命を明らかに示す場なのです。」

 すべての共同体が召命的であるためには、真の『スコラ・アモリス(愛の学び舎)』となり、友愛を目に見える形で表現することができますし、そうでなければなりません。互いに気遣い配慮し、互いの誠実さを守り、一人ひとりの善を喜び、すべての人の資質を評価し、誰も「見えない」存在にならないのが共同体です。わたしたちの共同体が、神の愛の無償性を、喜びをもって証しするものであれば、預言の価値を持っています。喜びは、イエス・キリストにおいて表された、絶えず成長し続ける神の愛の泉から汲み取られます。「人をキリスト信者とするのは、論理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向づけを与えるからです」 (教皇ベネディクト16世、「神は愛」1項)。

 多くの消費物が溢れる現代社会は、自分自身に目を向け、不満を抱き、与えることも微笑むこともできない心から生じる、個人主義的な悲しみに陥る大きなリスクをはらんでいます。

 わたしたちもこうした誘惑から免れているのではありません。時々、わたしたちは次のような経験をします。内的生活が、自分の利益に閉じこもり、霊的な歩みが疲弊する時、心の中に他者を受け入れる余地がなくなることを経験します。姉妹たち、若者たち、貧しい人たちはもはや 「入って 」来なくなり、神の声をもう聞いていないのです。しかし、生き方、行い、言葉をもって主イエスを証しすることが、教会と世界における奉献生活特有の使命です。使徒パウロが言うように、わたしたちは誰を信じたのか(2テモ1,12参照)、誰に自分の全存在を捧げたのかを知っています。

 イエス・キリストに対する熱烈な愛は、イエス・キリストがその優しく、より近くから、いつまでも従うよう招いておられる若者たちにとって、強力な魅力です。今のわたしたちの時代の人々は、奉献された人々の中に、主に属している者から来る喜びを「見たい」と望んでいます。

 この意味で、イエスと祈りを中心とした「高間」となる共同体、イエスが日常的に全人類を愛してくださるのと同じ無償の愛で他者を愛することを学ぶ場所である共同体の証しが重要なのです。

 福音的な意味に動機づけられた、穏やかで友愛的な関係の中でこそ、わたしたちは互いに豊かになれるのです。マリアは、その証しとともに、わたしたちにとって崇高な人生の学び舎です。すなわち、マリアはわたしたちに同伴し、祈り、行動し、苦しみ、そしてわたしたちと共に喜ぶ導き手です。絶えることのないおん父への祈り、おん子との絆、聖霊の働きかけへの温順さをもって、使徒たちを宣教へと準備するよう力を尽くしたのは彼女です。マリアは、教会において、わたしたちの共同体において、祈りと交わりの師であり、最初の福音宣教者として、わたしたちの中に強い宣教的飛翔を育ててくださいます。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」

  召命は賜物であり、無償の招きであり、神のイニシアティヴによる恵みです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15,16)この引用は、わたしたちの会憲の第1条の序文と、わたしたちのアイデンティティに関する部分にあります(第1条~第7条参照)。全文を理解するための鍵が含まれているこの最初の部分には、わたしたちの会が、聖霊の霊感とマリアの直接の介入によって、教会への贈り物として誕生したことが明らかにされています。

 神は、わたしたち一人ひとりの忠実さのうちに延長される愛の契約を、ドン・ボスコとマードレ・マザレロとの間に結んでおられます。これは、ドン・ボスコが述べているように、わたしたちの召命もまた、引力によって、伝染によって生まれたものであることを思い起こさせてくれます。もし、わたしたちの生き方がカリスマを証しし、魅力的なものとしているなら、若者たちが自分自身に深く問いかけるための条件を作り出すことになります。

 それはイエスの場合にすでに起こっていました。使徒たちは、並々ならぬ感嘆によって彼と繋がっています。彼らは主から醸し出される善良さを感じ取り、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。そして、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ 1,38)と答えられます。その時から、彼らは主とともにいて、主と同じ福音宣教の使命を分かち合います。

 すべての召命は、イエスの魅力への驚きから生まれます。主は、一番優れた人を探し求めたのではなく、父から与えられた人を使徒として招きました。ある者は喧嘩好きで、高慢で、権力欲が強い者もいれば、また他の者はもっと穏やかで、それぞれまったく異なっていました。福音書を読めばわかりますが、皆が主とともに留まっていました。

 若い男女にとって、自分の人生において進むべき道はどれか、神の招きは何かを識別することは容易なことではありません。自覚、責任、信頼性、そして喜びをもって自分の召命を生きている人の証を見る機会を提供することが、この探求をより容易にし、より励ましとなります。

 修道生活への召命がどれほど全人格を巻き込んだものであり、その結果、生きる意味とキリストの方向性がその人格全体に浸透するかを理解することが大切です。わたしたちの側からの直接的で明確な働きが必要です。というのも、神が呼びかけるのは事実ですが、しかし、神がわたしたちのような慎ましい人間の道具を用いて、若い男女の歩む道を示し、方向付けてくださることも、同じように真実なのです。イエスを体験するために、「来なさい。そうすれば分かる」のです。

 その意味で、彼らを受け入れる環境は重要な役割を果たします。そこでこそ、彼らはモデルや価値観を発見し、美しい友情を築き、そして何よりも、神への渇きに対する答えを見つけることができます。わたしたちの使命は、若い男女が徐々におん父の計画を発見できるよう、体系的で忍耐強い、押し付けることのない控えめな同伴を提供することです。

 どの共同体も、その生活と活動の状況において、サレジオ的カリスマが多くの若者たちのために実りをもたらし続けるよう、時を超えて持続させる任務を担っています。時代が変わり、若者がもはや奉献生活に魅力を感じなくなったということは、現状を受け入れるための口実です。人間の出来事を導くのは主であり、人類の救いのために何が必要かを知っておられます。しかし、わたしたちが正しい心で、使徒的な熱意をもって、希望にあふれて主を呼び求めるなら、聖霊が与えてくださる光で未来を考えて、準備する責任を逃れることはできません。

 会憲第73条をもう一度読んでみてください。一部だけ引用します。

「扶助者聖母会員の生活に呼ばれたことを

神に感謝しているわたしたちは、

本会の召命に関して特別に責任を感じる。

したがって、わたしたちは、絶え間ない祈りと

喜びにあふれた変わることのない忠実さをもって

本会の召命を懇願し続ける。

 

マリア・ドメニカ・マザレロの教育的な母性

 わたしたちのカリスマ的遺産を汲み取って、若い少女や姉妹たちに同伴し、導く優れた能力を持った女性、マードレ マザレロに目を向けましょう。

 興味深いことに、わたしたちの会の総長に初めて選ばれたとき、ドン・ボスコは、扶助者聖マリアが真の上長であり、彼女は単に副総長であると言って、指導者の任務を引き受けるよう彼女を納得させました。

 この断言は、同意することにおいて、彼女をどれほど安心させたかを、わたしたちは皆知っています。しかし、マリア・ドメニカ・マザレロが、謙虚さの中にも、自らを 「母 」と呼ぶことを許し、遠く離れた娘たちに宛てた手紙に署名することで自らをそのように定義し、この使命と自分を同一視していたことに注目するのは、二義的なことではありません。

 初めから、扶助者聖母会とサレジオ会にとって養成の指導者であることを受けとめています。マードレの死の数日後、ドン・レモエンはこう語っています。「霊魂の指導に特別な才能を備えていた彼女であったため、短期間に新修道会をこのように発展させることができたことは、創立者自身を驚嘆させるほどであった」(クロニストリア 3 480頁)。さらに彼は、彼女を特別な賜物と聖霊に対して大変素直であった方であったと書き記しています。

 彼女が若者たちに賢明に同伴できる方法を知っている識別のプロセスは、明らかに召命、宣教的な意味合いがあります。彼女は、母であり師であるマリアに大きな助けを見出し、マリアから一人ひとりを大切にする術を学びます。

 手紙48の中で、ドン・ボスコに、若い姉妹たちだけでなく、養成過程にある若い女性たちに対する自分の養成上の配慮を説明するとき、現実主義と彼女に託された人たちに対する認識を示しています。「彼女たちはまだ霊的に養成が必要ですし、仕事においても同様でございます」(手紙 48,11)。

 「修練女とポストランテはたくさんおります。けれど皆、教育されること、見守られることを必要としています。彼女たちの多くが、世間から浮いた心を持ってきていますし、それは今のうちに直してしまわないと、後に完成のさまたげとなったり、他人に伝染したりするからでございます」(手紙 48,8)。

 ドン・フェルディナンド・マッコーノは、列聖調査責任者に宛てた手紙の中で、最初のFMA共同体に対するマードレ・マザレロの貢献を次のように記しています。マードレ・マザレロの生涯を注意深く読む人は、創立者がドン・ボスコであることが分かります。しかし、誰が将来の修道女たちを準備したのでしょうか。誰が養成したのでしょう。彼女たちに犠牲を大切にし、飢えも、非常な貧しさ、彼女たちがそうであったその惨めささえも、愛するように教え込んだのは誰でしょうか。すべてが崩壊しそうな最も困難な瞬間に、誰が彼女たちを支えたのでしょうか。マザレロさんでした。ドン・ボスコは、その性格、判断基準、トリノの司教区との見解の相違や噂のため、モルネーゼをわずか数回、全部で15回位、訪問しています。動いていたのはマザレロさんでした。」(Lettera a don Francesco Tomasetti, 23 marzo 1935, in Maccono F., ocumenti e Memorie attorno al titolo di Confondatrice conferito a M. D. Mazzarello, in ACS (Mazzarello 9, cartella 5).

 マードレ マザレロにとって、謙遜、個人主義や世俗的な考え方との戦い、兄弟的な愛、限りない愛徳、交わりと一致、福音のための無条件の犠牲、イエスに満ちた正しい心の喜びが、扶助者聖母会とその共同体の特徴であることを忘れないようにしましょう。

 わたしたちが、青少年のために実り豊かであり、また、他の人たちの召命の識別を助けることができますように。何よりも、このみ言葉を心に響かせましょう。「わたしがいなければ、あなた方には何もできないこと」。マードレ マザレロが最後の手紙で海を越えて伝えた言葉です。「あなたには何もできないこと。何かできるようにあなたに見えることは、あなたの中で働いていらっしゃる神のみ手によるものだということを、いつも考えるのです。それなくしては、わたしたちは悪いことしかできないのです 」(手紙 66.2)。

 それは、主がみ心に従ってわたしたちの共同体を実り豊かなものにしてくださるよう、「たゆむことなく、一致して」祈ることへの明確で母性的な招きです。こうして、本物の召命共同体となるでしょう。

 間もなくわたしたちは、イエスの受肉という計り知れない愛の神秘を迎えるよう導く待降節の歩みを始めます。わたしたちをどのように助けるかを知っておられる無原罪の母なるマリアが、すべての子どもたち、若者たち、教育共同体、わたしたちとサレジオのカリスマを分かち合う人々(ミッションパートナー)とともに、ベツレヘムへの道程を導いてくださいますように。

 また、この機会を利用して、総評議会の姉妹を代表し、皆さまと、皆さまの愛する方々、教育共同体、ご家族、わたしたちの支部に通う子どもたち、青少年、若者たち、特に最も困難な中にいる方々に、平和と希望の聖なるクリスマスが訪れますようにお祈り申し上げます。

 これから始まる2025年の聖年を、希望の巡礼者としてともに生きて参りましょう。

 ドン ステファノ・マルトリオ副総長様、サレジオ会の兄弟の皆様、サレジオ家族の皆様方に特別なご挨拶を申し上げます。

 わたしたちは、戦争、暴力、自然災害、貧困などによって、困難な状況で生活している姉妹たちや共同体に特に心を寄せています。そして全人類のために、真の恒久的な平和の賜物を、信仰をもって祈り求めます。

 

 心を込めて皆様にご挨拶申し上げます。

 

ローマ2024年11月24日

 

 

                                             皆様を愛するマードレ