No.1037
どんなことにも感謝しなさい
(テサロニケ1.5,18)
愛する姉妹の皆様
喜びと希望に満ちたこの復活節に、わたしは親愛の心をもって皆さんを想い、祈りのうちにあなた方のもとにいます。皆さんお一人ひとりの存在と、わたしたちに委ねられた若者や青年のため、本会で行われているすべての善に対して、わたしからの感謝をお受けください。
典礼がわたしたちに提供している道程は、イエスが弟子たちに幾度も現れ、ご自身の現実の存在を再確認させ、「あなたがたに平和があるように」、「恐れることはない」、「恐れるな」という慰めの言葉をもって彼らに挨拶する復活のイエスの姿を思い起こさせています。
それは、今日のわたしたちにも繰り返されている招きです。
戦争、暴力、不正、迫害によって苦しめられている時の流れの中で、わたしたちは、疑い深く、怯えている弟子たちに似ています。時々、彼らと同じように、わたしたちも起こっているすべてのことに不安や恐怖を感じることがありますが、復活されたイエスの名において勇気を持って前進しましょう。わたしたちは主を信頼し、主に自分自身を委ねることができるのですから。
2024年世界共同体感謝の日をお祝いすることは、まさに歴史のこの時期にわたしたちを巻き込みます。世界とわたしたちの多くの共同体が苦しんでいるときに、お祝いは不適切ではと思われるかもしれません。しかし、わたしたちの中で働いておられる聖霊が、復活した者として生きるよう招いておられることを、わたしたちは知っています。
悪が善に勝利したかのような印象を受けるとき、復活された方との出会いは、わたしたちの生活を復活の告知へと変え、旅の喜びを回復させてくれます。
「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ1 5,18)。
わたしは、このチルコラーレで、感謝の意味を深めたいと思います。お祝いが単なる括弧内の一時的なものではなく、キリスト的、サレジオ的な生活の特徴であるこの徳を再発見し、生きる助けとしたいからです。
引用した聖パウロの言葉は、すべての善の源である神への礼拝、その現存への信仰を表し、わたしたちの人生における神の偉大さを受けとめるしるしとしての感謝へと招きます。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ 8,28)。
それは、時折ではなく、常に感謝しなさいという招きです。わたしたちの賛美の目的は「どのようなときにも、主をたたえる」(詩編 34,1)ことだからです。「感謝の祈りはつねにこのことを起点としています。つまり、恵みはわたしたちに先立って与えられることに気づくことから始まります。わたしたちは、考えかたを学ぶ前から、考えられていました。愛しかたを知る前から、愛されていました。自分たちが望む前から、望まれていました。人生をそのようにとらえるなら、「感謝すること」が日常生活の原動力となるでしょう。「ありがとう」と言うのを忘れてしまったことが、どれほどあったことでしょう。
(教皇フランシスコ 一般謁見 2020年12月30日)。
感謝はまた、共同体生活における基本的な徳でもあります。健全で真の人間関係を築く助けとなり、わたしたちをより良いのもとし、他の人の価値を認識させ、自分自身の最善を尽くすよう促します。感謝は、教育共同体や使命において、わたしたちが与えたり、受けたりできる貴重な贈り物です。励まし、やる気を起こさせる力があり、心の扉を開き、信頼、共感的な分かち合い、目立たない小さな動作や、日常の些細なことに喜びを感じる雰囲気を作り出すことに貢献します。
感謝の気持ちを表現することで、より強く、有意義で長続きする絆が生まれ、謙そんと協働へと開かれていきます。
わたしたちの心に感謝があるとき、人を許すこと、何よりもわたしたちの姉妹、子どもたち、若者、教育的使命を共有するミッションパートナーの心を理解することが容易になります。
扶助者聖マリアの娘というわたしたちのアイデンティティーの貴重な側面を構成する感謝の心は、わたしたちという贈り物、毎日届けられる贈り物として意識するよう促し、わたしたちの生活を美しさで彩ります。
わたしたちの規則は、支部、管区、そして世界レベルで行う感謝の祝典の価値と役割を思い起こさせています(参照 会則 40)。
マードレ・マザレロから今日に至るまで、途切れることなく続いているこの体験は、友愛の交わり、使命の活力、わたしたち全員と教育共同体のサレジオのカリスマへの帰属意識を強める実り豊かな良い機会であることをわたしたちに確認させてくれます。感謝の喜びを生きることこそが祝いなのです。
ベネディクト16世は、お祝いに不可欠なことは喜びであるとしながらも、次のように付け加えました。「祝いは企画できますが、喜びは企画できません。それは賜物として贈られます。聖霊がわたしたちに喜びを与えてくださいます。そして、聖霊は喜びです。その喜びのうちに、他のすべての賜物は集約されます。幸福の表現であり、自分自身との調和であり、神とその創造物との調和からのみ得られるものです」(ベネディクト十六世 ローマ教皇庁挨拶 2008年12月22日)。
世界共同体感謝の日は、わたしたちが「サレジオ」的な教育共同体であることを強化する聖霊の賜物であるこの喜びを祝う瞬間です。そして、愛の霊のうちに、おん子を通して、おん父への最高の感謝である聖体祭儀による感謝の絶え間ない力強い流れに浸らせてくれます。
神への感謝は、アイム・カリムの家で若い母親が歌い、踊りによっても…表した感謝、ナザレのマリアのマニフィカトに呼応します。母としてわたしたちの存在に寄り添い、未来への道を示してくださる聖母に、わたしたちの委託を新たにし、ともにマニフィカトを歌いましょう。
マリアと共に『夢』に導かれて、共通の家を大切にしながら平和を生みだしましょう
Sr. マリア・デル・ロサリオ・ガルシア・リバス副総長が、すべての管区共同体に送った手紙の中で、「世界共同体感謝の日」の準備のための示唆と明確なガイドラインを提示してくださったことに感謝いたします。
モザンビークの管区長、Sr. カロリーナ・イルダ・エルミニオ、そして2024年世界共同体感謝の日の準備と実施に尽力してくださった「聖ヨハネ・ボスコ」管区の姉妹の皆様に心から感謝の意を表します。
モザンビーク管区が提案したテーマは、総合的なエコロジーの観点からの総会決意表明に応えて、わたしたちが賛美の賛歌として人生を生き、すべての恵みに感謝し、詩篇作者の呼びかけに加わるよう促してくれました。「主よ、わたしたちの神よ、あなたはみ手の業を支配する力を人間にお与えになりました」(詩編 8)。
宇宙のすべての造られたものの中に、教育共同体の中に、若者や青少年の中に、わたしたちの家に住む子どもたちの中に、また、さまざまな学校教育、社会福祉事業、要理教育の場でわたしたちに委ねられている子どもたちの中に、神である主の威光がわたしたちの前で輝いています。そして、日毎の惜しみない献身と無償の愛の捧げ物を寛大に生きるすべての年代の姉妹たちの中に、神である主の威光がわたしたちの前で輝いています。
お祝いのロゴには、貴重なシンボルが見られます。それは、ジョバンニーノの9歳の夢に登場するマリアです。わたしたちの共通の家を受け止め、思いやる母、教師としてのモデルです。
福音書では、天使のお告げの後、マリアはイエスの母として定められました。そして、マリアは、イエスの受肉に対する「はい(受諾)」によって、イエスを世話し、教育し、愛する真の母であり、あがなわれた民、神に向かって歩む全人類の源であり、はじめとなります。
教会の歴史において、エフェソス公会議における「テオトコス」の宣言ほど信者を喜ばせた教義はありません。431年10月11日の夕方、この発表がされると、群衆は歓声を上げ、れない抑えきれないほどの祝いを巻き起こしました。公会議場を出た教父たちは、群衆の勝利の喜びの叫びに囲まれ、夕方には歌と火を灯したたいまつで自分の家まで伴われました。
キリスト者の助けであるマリアの娘たちであるわたしたちは、まさにこの母との深い親しみ、母と娘の繋がりを生きるという喜びに満ちた招きを受けました。
扶助者聖母マリアは、神の母、「困難な時代の聖母」、悪に対する「戦いのために備えた軍隊のように力強い」、エデンと黙示録の女性です。教皇ピオ七世は、キリスト者の擁護に聖母の力強く輝かしい介入を経験した後、1814 年に「扶助者」の称号をもって教会に紹介されました。
マリアは、世界のさまざまな地域の若者に、イエスを伝えようと努めているご自分の娘であるわたしたちに、手を貸せるように準備できている注意深い母です。わたしたちは今日、友愛と平和の道具となることを求め、連帯をグローバル化する必要がある現実の中に生きています。そこは、特に武器の轟音(ごうおん)が、人々の叫び、平和を渇き求める声、未来への希望を抑圧しています(参照 教皇フランシスコ イタリア赤十字ボランティア創設160周年記念の集会で 2024年4月6日)。
ドン・ボスコがニッツァ・モンフェッラートで見たように、マリアは日々、共同体で展開されるわたしたちの日常生活に寄り添ってくださる母です。世に対するイエスの勝利のためにわたしたちと共に働く母であり、休むことはありません。そして、扶助者聖マリアの活動的な現存に大きな信頼と豊かな歳(よわい)を重ねたわたしたちの姉妹の言葉を借りれば、「マリアは日中に陥った過ちを夜間に修復してくださる」のです。
わたしたちを決して見失わない身近にいる母、わたしたちの手を取って、日々の歩みをする優しい母です。(参照 教皇フランシスコ チェストコーワの聖母の300年にあたるビデオメッセージ 2017年8月26日)。
感謝の生きた記念碑
ドン・ボスコは、わたしたちを「マリアへの感謝の生きた記念碑」として望まれました。
1872年8月4日のことです。
わたしたちの創立者は、夕方モルネーゼに到着し、馬車から降りるとすぐに、黙想会に参加していた婦人たちと、将来の扶助者聖母マリアの娘たちに短い挨拶をしました。
彼は、心の深い願いを実現した人の喜びに満たされ、抑えることができずに告げます。
「それから喜ばし気なドン・ボスコは、『みなさんはFiglie di Maria Ausiliatrice(扶助者聖マリアの娘たち)と呼ばれ、その修道会はキリスト者の扶助者という称号のおとめへの自分の感謝の生きた記念碑であるべきだ』と話を結んだ。 」( クロニストリア I 375)
今日、感謝の生きた記念碑であること! わたしたちは、教会と会の生活において、扶助者という名のもとに祈り求められたマリアのかつての介入の単なる模倣ではありません。
わたしたちは、この現代社会におけるマリアの証人です。わたしたちの生活と教育共同体におけるマリアの確固とした介入について、絶えず驚嘆を増していく生きた感謝です。これらはわたしたちが認識している介入ですが、その他にも静かに事前に行われる介入があります。おそらくその方がもっと多いのではないでしょうか。
今日、扶助者聖マリアに対するドン・ボスコの感謝を継続し、更新するとは、すべての人に扶助者聖マリアを告げ知らせ続けることであり、子どもたち、若者、大人、家族の人たちの心に、聖母マリアはわたしたちをイエスのもとに導いてくださる方ですから、決してそこから離れてはいけないという確信を育てることです。
それは、この保護のマントは限りなく大きく広がり、わたしたち皆を喜んで迎え入れ、保護すること、このマントがなければ、わたしたちの司牧活動は温かさと効力に欠け、成長するため良い土壌を見つけなければならない福音的な種への配慮が不足することを信じることです。
自らを「Figlie di Maria Ausiliatrice(扶助者聖マリアの娘たち)」と名乗ることは、その名前が示す美しい現実を真剣に受け止めることを意味します。わたしたちにとって、それはまさに「誇り」であると同時に、世界に喜びを運び届けるという大きな責任でもあります。
「Figlie di Maria Ausiliatrice(扶助者聖マリアの娘たち)という皆さんの美しい呼び名を誇りにしてください」(クロニストリア I 384)
ドン・ボスコは、地上での生活の終わりに、「聖母はすべてを行われた」と宣言しました。そして、わたしたちは、マリアが一人ひとりの生活や教育共同体の生活において、実際にあらゆることを行い続け、わたしたちの使命を福音的な生活の面で実りあるものにしてくださっていることを体験する恵みを受けています。
マリアは、すべて聖母のものであるこの会に現存し続けます。
刑務所で主に未成年の男子のために働いている一人のFMAは、絶えず彼らに同伴し、扶助者聖マリアに繋げるよう努めています。彼らの一人は、その姉妹に次のように書いています。「母の膝の上で学ぶ聖母マリアの祈りAve Mariaは、僕たちの活動の基礎であり、聖なる母性に対する熱烈な賛美と祈りです。」 確かにこの少年は、聖マリアの母としての保護を個人的に体験したことがあるのでしょう。そして、後は母である彼女が引き受けてくださるでしょう。
ドン・ボスコがわたしたちに約束してくださったように、マリアの母性的な愛、マリアの現存による慰めと励ましを皆さんが体験されることを希望します。「聖母はこの家の中をめぐり歩き、そのマントで家をおおっていらっしゃいます」(クロニストリア V 58)。
1869年にドン・ボスコによって設立されてから今月で155周年を迎えるADMA(扶助者聖マリアの会)のため、特にお祈りしましょう。そのすべての会員が、マリアは決して見捨てないという確信を持って、聖母への委託、聖体のイエスへの愛、弱い人々との注意深い連帯を保ち、信仰を広め、希望をもたらすことに尽力し、その使命を継続するようお願いしましょう。
現在、本部にいる総評議会の姉妹、また不在の姉妹に代わり、親愛の情をこめて皆様にご挨拶します。そして、来月5月24日にトリノの扶助者聖マリア大聖堂において、皆さんを思い、お祈りすることをお約束いたします。
ローマ 2024年4月24日
皆様を愛するマードレ