平和は平和によってのみ可能である
ジャン=ポール・ハビマナ
あの時私は10歳だ ったが、まるで昨日のことのように覚えている。私の大勢の親族、友人、知人と同様に私の父が殺された。私はただ一つの目的をもって、大量虐殺を生き抜いてことを語っている。この記事を読んだ後、よりよい世界のために今日何がで きるか、自分に問いかけて欲しい。日々の生活で、一人ひとりにも何かができる。世界を変えるのは、小さいことの積み重ねなのだ。
泣いたことがある目だけに見えることがらがある。私たちの個人的な来し方について振り返ってみると、誰もいない時を見つけることがある。私たちは蔑まれたり、無視されたりしている。それに、語るのに困難な時を生きてきたこともある。私の心に聖ペトロの言葉が浮かぶ。「あなたがたは『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり・・・・・・』」(Iペトロ2:10)。「神は救いの実現者、一致と平和の本源であるイエスを信じ仰ぐ人々を招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人一人ひとりにとって、救いをもたらす一致の目に見える秘跡となるためである」(『第二バチカン公会議公文書 教会憲章』9)。人々の唯一の長である御方、キリストへの信仰という貴重な贈りもののおかげで、あの方が私のために、私の内になされたことを世界に語る務めを私は強く感じている。
私はカトリック信者の家庭に生れた。私たちは毎晩ロザリオの祈りを唱えていた。私の村には静穏な雰囲気が漂っていた。人々は互いに仲がよかったので、親の付き添いなしに村の子どもたちと小学校に通った。私たちは一緒に遊び、一緒に勉強した。要するに、すべてが表面的にはうまく行っていたのだ。子ども時代の唯一いやな思い出は年度のはじめに、身元の届け出用紙を作成しなければならないことだった。すべての子どもたちが呼び出され、一人ひとりの部族が言い渡された。これは私にとって悪夢の瞬間だった。教師たちはツチであることは権利が少ないことを知っていたが、当たり前になってしまった不公平なので、誰も気にはしなかった。ツチと呼ばれると、フラストレーションを感じた。ツチであることは、多くの働き場所から除外されることがわかっていた。
イタリアで生れたにも関わらず、イタリア国籍を持たない生徒を学校で見るたびに、私は先に述べた事態を思い起す。そういう学生たちは生れ育った国で外国人とされ、法律から除外されている。だが、1994年以前のルワンダと同じように、こういう深刻な差別は気づかれず、その中にいる人々だけが感じている。表面的には問題はない。一緒に遊び、一緒に食べる。要するに、すべて同じである。だが本当にそうなのか。生れた国で警官に呼び止められて滞在許可を尋ねられることが青少年にとってどういうことか、考えて欲しい。実際に起きているとは、思えないだろう。しかし、これは事実で、私に自分のことを語らずにはいられなくさせる多くの理由の一つである。
聖母の出現について語られるのをしばしば耳にする。信じる人々もいれば、そうでない人々もいる。ルワンダでのツチの大量虐殺は聖母によって予言された。1981年から1989年までの8年の間、聖母はルワンダ南部の村、キベホで出現し、話しかける相手としてアルフォンシーヌ、マリ・クレール、ナタリーという3人の少女を選んだ。そして、彼女たちに大虐殺、暴行、路上に置かれた手足を切断された大量の死体をお示しになった。この不幸を遠ざけるために回心し祈るよう、すべての国民に求められた。私の母はその少女たちの話を聴くために、80年代に人々が行った長い旅について話してくれた。そのご出現は2001年にカトリック教会から認められたが、劇的なまでに予言していた。1994年に国を荒廃させたツチの大虐殺を予知していたのだ。
復活祭の休暇中のことである。1994年4月6日の夜8時30分頃、ルワンダ大統領の乗った飛行機が撃墜された。学校は閉まり、私たちは自宅で過すことになった。私たちは7人兄弟で、父は商売をしていて、母は専業主婦だった。あの時代にルワンダの人口の60%と 同様に私たちはカトリック信者だった。4月7日、ラジオが大統領機撃墜のニュースを伝えた。恐怖の始まりだった。翌日、フツによるツチ大虐殺の噂が流れ始めた。温かい食べ物をテーブルに残したまま、私たちは逃げた。そしておびただしい人々の列に押し倒された。父を見たのは、それが最後だった。混乱の中で家族は散り散りになった。私は唯一知っている場所に向った、シャンギ小教区の教会で村からは数時間離れていた。私たちは大勢だったが、家族のメンバーは一人もいなかった。疲れ切って教会に到着すると、人であふれかえっていたが、弟のヴァンサンといとこのベルタン、カズング、テオバルド、マルタンに再会できた。怪我をした人々が、フツの議会軍の大虐殺について話してくれた。数日間、私たちは食べ物も水もなく、立てこもった。フツは教会を取り囲み、水道管を壊した。生き延びるために、バナナの葉をかみ砕いた。施しをもらうために、何度か女の子に変装して出かけたりもした。私たちはロザリオの祈りを唱えた。だいぶ経ってから、フツのシスターたちが私たちを隠れて連れ出すことに成功した。命がけで修道院に着いた。そこには水があったし、わずかだが食料の配給があった。しかし静かな日々は続かなかった。4月29日、軍隊が新たに攻撃を行った。もう一度外に逃げ出し、死者やうめいている負傷者と人々を殺傷するフツ族の議会軍の中に身を置いた。私は生き延びることができたが。そのことで、今も神に感謝している。あの数日間についての記事は痛ましいが、多くのことをわからせてくれる。
政治家たちは大虐殺の期間にコミュニケーションの公的手段として最もよく使われたラジオを通して、一人残さず殺すようフツを説得した。人々は朝から始めて、夜には疲れて家に帰った。彼らはそれを仕事と呼んでいた。すべての通りに検問所をつくった。そこを通る人は身分証明書を見せなくてはならない。「ツチ」と書かれたカードを持った人はすぐに殺された。私はマリアとシラスの家に隠れ場所を見つけた。二人はフツだったが、起こっていることに従わなかった。私が今こうして書いているのも、彼らが数週間私をかくまってくれたからだ。私はそこで、母と兄弟たちが生きていることを知った。おかげで、私は希望を呼び覚ますことができた。危険がやわらぐまで、私はマリアとシラスの家に隠れていた。逃げるツチを受け入れ、助けてくれるという噂が聞えて来るようになった。私はニャルシシの難民キャンプに行くよう勧められた。数日後、私は奇跡的に母と兄弟たちと合流した。
ニャルシシのキャンプでの生活はかなり大変だったが、少なくとも太陽の光を享受することはできた。それまで夢だったことだ。7月にルワンダ愛国戦線勝利の知らせが届いた。虐殺は終り、直ちにキャンプは撤収された。自分たちの家に帰るように言われたが、もう何もなかった。私たちの家は基盤から土にされてしまった。ルワンダの社会的構造は文字通り破壊された。だが、多くを勇気づける連帯性を見ることができた。手が差し伸べられた。孤児たちは受け入れてくれる家族に引き取られ、少しずつ再興が始まった。建て直しは新たな住居の建設によってだけでなく、何よりも先ず人々の関係を修復するためのルワンダの教会のたゆまぬ作業によって進められた。これらはすべて1994年4月から7月まで続いた。大量虐殺はルワンダ人によって開始され、ルワンダ人自身によって終結された。国際社会は見ていたが、終始無関心だった。 虐殺の100日間、マリアとシラスは70人以上を助け、このエピソードはその後の私のゆるすプロセスに決定的な影響を与えた。前述のフツのシスター達と同様、2人は私たちを助けるために死ぬ覚悟ができていた。シラスとマリアは今日ミラノに本部を置き国際的に活動するNPO(民間非営利団体)Gariwoによって「正義の人」として認められている。(註:Gariwoは英語のGardens of the Righteous Worldwide 世界正義の庭の頭字語。https://it.gariwo.net/)私たちはこの正義の庭を世界各地に設置し、人間としての責任のメッセージを広めるためにさまざまなコミュニケーションの手段、ソーシャル・ネットワークや広報活動を使っている。毎年3月6日は欧州議会によって、正義の日と制定された。大量虐殺の期間、私たちは絶望し、信仰にすがっていたのではない。
信仰は私たちにとってまさにいのちだった。私たちは絶えずロザリオの祈りを唱えた。私を死なせないでくださいと神に願い続けた。せめて次の日は迎えられるようにと。もし、よい運命を確信していなければ、私の母はどのようにしてたったひとりで生き続けて7人の子どもを育てることができただろうか。彼女は夫と兄弟姉妹、友人を失ったが、信仰のおかげで神が自分を見捨てなかったと感謝していた。2023年、結婚50周年記念の年、実際に夫と共に過したのは21年で29年は未亡人だったが、母は教皇に金婚式の祝福をお願いした。彼女の夫はいつも心の中にいたからだ。
司祭、司教、修道士、修道女はゆるしへと招いた。私たちにとって、それは私たちを攻撃した隣人をゆるすことを意味した。それでも私たちはゆるした。そうすることで、少しずつ私たちは生きて行けるようになった。時として、ゆるしは生きるための唯一の手段だった。正義を行う試行期間があったが、90年代末頃、私たちの国はこのままではいられない状況にぶつかった。一方では法的裁きを願う生存者たちがいた。大事な人が殺され、その人を取り戻すために誰にも何にもすがれないことは受け入れがたいことだった。他方、刑務所にいる親戚のために食べ物を差し入れる、殺人者の家族がいた。国は貧しく、政府は全囚人を世話できなかったのだ。教会は「ガカカ・ンキリシトゥ」(キリスト教のガカカ)を始めた。(訳註:ガカカは、1994年のルワンダの大虐殺の間に行われた人類愛に反する犯罪者を裁き刑罰を課するために2001年につくられた法廷)。
司教たちは被害者たちの家族と虐殺の張本人たちとの対話の場を設けることにした。関係者たちは「礎となる教会共同体」で出会った。神のみ言葉が読まれ、黙想し、心からの偽りのない対話ができるよう努めた。そして2000年の始まり、政府はガカカの実状を受け止め、殺人者たちと全共同体の対話が行われるようになった。ガカカ(文字通りには、中庭で人々が腰をおろす雑草)は植民地の前に、衝突があるたびに行われていた慣習である。被害者の家族は片側に、犯罪容疑者の家族はその反対側に座る。そして一緒に解決策を探す。それと同じ習慣が取り入れられたのだ。大量虐殺に関与した人々は村を訪ね、ゆるしを求めると解放された。
明らかにこの主たる目的は出口への道、ルワンダを前進させる解決法を見つけることだった。今でも殺人者たちと被害者たちは週に1回互いの家を訪れ、共に祈り、福音について分ち合い、愛徳のわざを行っている。ゆるすことは理屈ではない。実際に体験しなければならない。1997年、大虐殺の3年後、私はシャンググの聖アロイス小神学校で高等学校教育を受け始めた。大虐殺の日々、神に対して行った約束が私の心にのしかかっていた。「救ってくださったら、司祭になります」。しかし善き神は私に対して異なる計画を持っておられた。高校で私はマリ・ルイーズのいとこであるピーノ(ファンタジーの登場人物の名まえ)と知り合った。彼の話は私に強い衝撃を与えた。彼はフツだった。彼は私と同じ苦難を生き抜いた。私は父を失ったが、彼の父親は刑務所にいた。そして彼の母はツチで、彼女は私の母のように家族を殺され、食べて行くために苦労をした。ひとりで家族を養うために骨の折れる仕事をしなければならなかった。私だけでなく、ピーノの苦しみにも価値があった。ある日、学校に囚人たちが働きに来た。その中には虐殺の上位責任者たちがいて、ピーノの父親もいた。学校の終りの年、私はピーノの家に行った。そのとき知ったのだ。彼の母親はツチで、親兄弟は皆殺されたが、彼女はフツと結婚していたので見逃してもらえたのだと。国と同じようにふたつに引き裂かれたピーノの心の苦しみは私の想像を超えていた。
私は2004年、学校を卒業した。私と14人の仲間は司祭になるため大神学校への入学を願った。司教は10人をルワンダのルトンゴに、2人をローマに、私ともうひとりをレッジョ・カラブリアに送った。2005年、私はイタリアで正確にはカラブリアで司祭叙階に向うためのコースを開始した。しかし、ある時、私の中に家庭を築きたいという強い思いが生じた。そして長上と司教の指導による熟考と識別の結果、私は神学院を去ることになった。ルワンダに戻り、マリ・ルイーズと再会した。彼女は看護師になる勉強をしていた。彼女にとっても大虐殺後の数年はつらい時期だったが、人間として大きく成長した。私たちは婚約し、少しずつ結婚に向って行った。私の家族にフツの女性と結婚すると話すのは容易いことではなかった。それに彼女の父親はコンゴに逃亡して亡くなっていたので、事態は一層難しくなっていた。親戚の中には挨拶をしなくなったり、彼女の部族から受けた恐ろしいことを忘れたのかと責めたりする者もいた。それでも、私たちの愛は祈りと教会に対する信頼のうちに、善き神に寄り添われ導かれてさらに強くなった。あの数年間に神が私に教えてくださった愛のおかげで、私はすべてを乗り越えることができた。私たちは2013年に結婚し、2人の息子サムエルとダヴィデが生れた。フツとツチを一つにするものはその二つを分けるものよりはるかに多いと私たちは断言できる。私たちは理解し合うために互いの立場に身を置く必要があった。そのためには祈り続けることが欠かせない。キベホに現れたみ言葉の聖母がおっしゃったことを無駄にしてはならないのだ。大虐殺は回心への呼びかけだった。あの痛みから、どれだけ多くの働き、カリスマ、よいことが生じたことだろう。私は憎しみの結果にも実際にふれたが、ゆるしと愛がもたらしたものの方がはるかに強固だった。そこで毎年夏に私はイタリア人の生徒、同僚、友人を連れてルワンダを訪れている。彼らが自分たちの目で、この地上で人間を分けるものは結びつけるものに比べてどれだけわずかであるかを見るためである。平和は可能である。平和によってのみ見つけられるのだ。
昼夜に及ぶツチ狩りから30年が経った。フツの手により100万人を超えるツチが死んだ。著書「恐怖を超えて-ルワンダでのツチの虐殺と和解」(テッレ・ディ・メッツォ出版)で私は自分と家族が生き抜いた体験について語っている。私はマリ・ルイーズと結婚した。大虐殺の前に私はツチに、マリ・ルイーズはフツに属していた。違う立場であの時期を生きたが、その経験は決して無駄ではなかった。