No.1028
黙想会と毎月の静修
聖性の歩みにおける躍進のため
愛する姉妹の皆様
先日、ボゴタで開催された「世界共同体感謝の日」に、教育共同体の皆様とともに、心からの愛情を込めてご参加いただき、ありがとうございました。このイベントは、コロンビアの4つの管区により、大きな愛と帰属意識をもって組織され、活気づけられました。
選ばれたテーマの、「マリアと共に、平和の文化を生み出そう」は、現代に即したものであることがわかります。 これは、準備の最初の段階から、日常生活の中で、単純で具体的な行動を手始めに、平和を築くための取り組みに多くの方々の参加を推進しました。
世界にとって、平和がさまざまな形でこれほど脅かされているこの微妙な時期に、「世界共同体感謝の日」は、神のみことばによって強められた平和の賛歌であり、平和を築く具体的な模範でした。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。
この行事は、街の大聖堂での荘厳な感謝の祭儀から劇場での催し物に至るまで、コロンビアのさまざまな地域におけるサレジオのカリスマの存在に対する感謝の表現として、サレジアン・シスターズとミッションパートナーが、シノダリタと喜びのうちに、準備してくださった芸術作品であり、平和を生みだす教育スタイルを反映した美しさ、リズム、色彩、風景、民間伝承のほとばしり出た作品でした。
管区長suor Edith Franco Ruiz(コロンビア管区-ボゴタ「チキンキラのロザリオの聖母」-CBC)、suor Cecilia Camacho(コロンビア管区-ボゴタ「雪の聖母」-CBN)、suor Bertha Celmira Serna(コロンビア管区 – メデリン「扶助者聖マリア」 – CMA)、そして、suor Sara Cecilia Sierra(コロンビア管区 – メデリン「聖マリア・マザレロ」 – CMM)の皆様が、ご自分の管区全体が分かち合いと交流へ参加するよう企画してくださいましたことを改めて感謝します。
わたしたちは、総会後の歩みを続けています。このチルコラーレでは、第24回総会の優先課題の一つである新たな召命の活力を燃え立たせるため、継続養成のうちに身を置くことについて、皆さんとご一緒に引き続き考えていきたいと思います(第24回総会議事録 35参照)。これから迎える聖霊降臨の祭日でも、わたしたちは聖霊の力によって自分自身を新たにするため、ドチビリタスを生きるよう招かれていること、そして、日々の生活によって養成され、変容されるままになることを思い出させてくれます。
このため、会憲第46条で「内的刷新の特別な時」と定義されている「聖性の歩みに
おける躍進のために非常に重要であるとドン・ボスコは考えていた」毎月の静修と毎年の
黙想会についてしばらく立ち止まるのは良いことだと考えています。
回心の歩みとしての黙想会
「黙想会」と言う用語は、カトリックの修徳に由来し、一連の信心(声祷と黙祷、良心の糾明、霊的読書など)を指す一般的な意味と、自分の霊的生活に集中し、熱意を新たにするために通常の仕事から離れることを指す特殊な意味を持つ言葉でもあります。このキリスト教的な習慣を広めたのはロヨラの聖イグナチオです。その後に、聖ビンセンチオ・ア・パウロ、十字架の聖パウロ、聖ヨハネ・ユード、そして、聖ヨセフ・カファッソが続きました。
聖イグナチオは、黙想を、観想の中でキリストとの親密な一致に至るための霊的な歩みと見なしています。彼は、心の奥底にある聖霊の働きを発見し、聖霊に反するものを特定するのに役立つ様々な方法で、神の言葉を聞き、それを黙想することを提案しています。個人的な深い潜心の雰囲気の中で行われるこの黙想は、数日から1ヶ月間続けることもあれば、普段の生活の中で体験することもできます。
なぜ、霊的なのでしょうか。それは、主役であり導き手は聖霊であり、今も、これからも常に聖霊であり続けるからです。聖霊がわたしたちを導いて、真理をことごとく悟らせてくださることを思い起こさせるのは、イエスご自身です( Gv 16, 13参照)。
聖パウロの「コリントの信徒への手紙Ⅰ」に、手掛かりとなるいくつかの個所があります。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、「霊」に教えられた言葉によるものです。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。(…)霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません(1コリント 一 2, 12-16)。
霊操の目的は、主と共にいること、主の中に留まり、呼ばれた者として、また宣教者としてのアイデンティティを回復すること、それは、イエスとの出会いの中で、また聖霊の働きを通して、イエスについての崇高な知識の中で成長することです。それは、他者との関係の中で表現され、実証される認識であり、おん父のご意志を受け入れるために心を開かせるものとなります。使徒パウロが次のように語っているような、人生全体に関わる認識です。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3,10―11)。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラ2,20)と言うほどです。
マードレ マザレロは、亡くなる前に十字架にかけられた主を仰ぎながら、同じ願いを表現しました。「わたしの愛する天の花婿よ! あなた以外に何も望みません。…もしわたしが今あなたを知っているように、姉妹たちもあなたを良く知るならば!」クロニストリア3,443」。
霊操は、みことばに耳を傾け、黙想し、神のご計画を理解し、内的にわたしたち自身を他者に贈り物とするにあたって、ますます自由に主に従うよう駆り立てるイエスとの交わりを味わいつつ、より強い恵みの体験を生きるための特権的な時です。この体験の中で、わたしたちは自分の行動の意味と基準を見いだし、日々の識別の実践を通して、時や歴史の中に神のしるしを読み取ることを学ぶことができます。霊操では、主がわたしたちの中で自由に行動し、わたしたちに何を望んでおられるかを教えていただきます。エマオの弟子たちと同じように、わたしたちにも個人、共同体、使徒としての生活の体験についてイエスに話す機会があり、それによってイエスは、救いのご計画におけるそれらの意味と目的を説明できるようになります。そうすれば、わたしたちの目はますます希望と喜びに開かれ、新たな愛のほとばしりを共同体や青少年に注ぐことができるようになるでしょう。
会則第33条では、毎年の黙想会は8日間にわたって「沈黙と祈りの雰囲気のうちに、通常の仕事から実際に離れて実施される。黙想会は、神のことばに対し、また会憲に対して、自分を比較対照する」重要な機会であることを思い出させてくれます。
本会は、聖性の歩みに躍進するための非常に重要な時、すなわち、イエスは、わたしたちが誓願を立てたときに宣言したように、今でも本当に第一で、唯一の愛なのかを自分自身に問いただす機会を与えてくれます(参照 教皇フランシスコ、使徒的書簡「すべての奉献生活者の皆さんへ」2014年11月21日)。
ドン ボスコは『メモリエ・ビオグラフィケ』の中で、わたしたちが頂いた恵みの賜物について次のように語っています。「黙想会の時には、主は特別な恵みを与えてくださるので、誰もこの非常に重要な時を別の機会に延期すべきではありません。しかし、あなたの心の中にあることを行い、この恵みを活用すれば、あなたは生涯、喜んで穏やかに過ごすことができるでしょう」(MB13巻419頁)。「わたしたちは皆、黙想会をよく行い、主の恵みがわたしたちに豊かに降り注ぎ、わたしたちが皆、聖なる道を進んでいくことを願っています。」(同上、126頁)と勧めています。
マードレ マザレロは、手紙27の中で、黙想会の恵みをこのような時として思い起こしています。「黙想会のあいだ、わたしたちは心に炎を燃やしていました。けれど、もしときどき灰を除き、たきぎを足さなかったら炎は消えてしまうでしょう。今、炎を再びかきたてるときなのです。無原罪の聖母の祝日のこの日々、それからクリスマスには、わたしたちは自分たちの心を燃え上がらせなければなりません。そうすれば死の時まで炎を燃やし続けていられるでしょう」と。
毎月の静修:聖性の道における再出発
会則第34条には、次のように書かれています。「各共同体は静修、すなわち『善い死の練習』に・毎月、半日 そして、・3か月毎に1日をあてる。沈黙と潜心の状況を整えながら、自己の生活の見直しのこの貴重な時に、黙想会に類する位置づけを与える。少なくとも30分間の糾明における自己の生き方の見直し、『善い死を求める祈り』、共同でする誓願更新を聖性の道における再出発のための有効な手段として活用する」と。
ドン ボスコは、毎月の静修、あるいは彼が言うところの「善き死の訓練」を体験するよう青少年を教育しました。彼はよくこう言っていました。「毎月、この日の赦しの秘跡を人生最後のものとして受ける青少年の救いは、確かであると言うことができるとわたしは思います」と。青少年には数日前に準備するよう予告され、それから彼らは、自分の年齢を超えるほど真剣に、上手に準備に取り組みました。これこそ、ドン ボスコが彼らの中に呼び起こすことのできた望みでした」(メモリエ・ビオグラフィケ4巻683-684)。
すべてのモデルであり支点となるのは、常に祈りの力に訴えておられ、人里離れた所に
祈りに行かれるイエスです。貧しい人々や病気の人のために必死に尽くしておられるときでさえ、おん父との親しい対話をやめなかったということです。民の苦境に懸命に尽くせばそれだけ、わたしたち人間が大いに飢え渇いている神の愛に留まり続けるために、三位一体の交わりのうちに「憩う」必要を感じたのです。
イエスご自身、祈る人は現実から退くのではありませんが、砂漠のように人のいない場所を好ましい条件として選ぶことを教えます。「そうした静寂さの中にあっては、内に秘められていた多くのことばが吹き出してきます。抑圧してきた欲求、押し殺してきた本音、などです。そして何より、神は静寂の中で語ってくださいます。だれしも、内的生活を磨く場、行動の意義を再確認する機会が必要です。内的生活がなければ、うわべだけの人、心乱れた人、不安げな人になってしまいます。ですから、祈らなければなりません。内的生活がなければ、現実から目をそらし、自分自身からも逃げてしまい、逃げ続ける人になってしまいます」(教皇フランシスコ一般謁見 2020年11月4日)。
祈りは、すべては神からもたらされ、神のもとへ戻るということを認識する場であり、したがって、おん父との関係、隣人との関係、被造物全体との関係において、自分自身の正しいあり方を再発見する助けとなります。
日常の神秘性
会憲本文の追録として記載されている「扶助者聖母会員への聖ヨハネ・ボスコの教訓と励まし」(1884年12月8日)には、次のように記載されています。「どんな任務、どんな仕事を与えられようと、また、どんな心配、不愉快に出会っても、神に奉献した者として、神のためにのみ疲れ、神のみに報いを期待しなければならないことを忘れてはなりません。」
ドン・ボスコは、自分の息子や娘たちに、とりわけ使徒的なレベルでの熱心な働きを提案しましたが、動機(主のためだけに)としても、存在(主のうちに)としても、決して主から切り離されることを認めませんでした。
創立者から提案された一致の恵みは、充実した調和のとれた共同生活を送るための方法となり、宣教において豊かな実りをもたらす根拠となります(KO Maria, La forza delle radici, 141参照)。
会憲48条は、わたしたちの祈りの本質とスタイルを明確に示しています。「まことの信心は、わたしたちの務めをすべて、その時、その場で、神への愛のためだけにひたすら果たすことにある」と、マードレ・マザレロは教えている。したがって、わたしたちは、この使徒的愛の精神をもって働くように努める。この愛こそ、自分を全く与え尽くすようにわたしたちを促し、活動そのものを主とのまことの出会いとする。」
ドン ボスコのように、マードレ マザレロとモルネーゼの最初の共同体もまた、主のためにのみ働き、主の現存の中で生きることを目指しています。この「一致の恵み」の意味深く大切な統合は、「一針一針を神への愛の行い」としたいと言う望みです。」
こうして日々の生活は神と隣人への愛うちに生きられます。
マードレ マザレロは手紙の中で、ドン ボスコの教えと協和させ、神に一致した人生の美しさ、充満と喜びを表現しています。
そのうちのいくつかを思い出して見ますが、皆さんが自分で調べて見ることもいいでしょう。
「イエス様と、しっかり一つになるような生き方をしなさい。イエス様だけをお喜ばせするために働き、毎日聖人により近づくように努力するならば、いつでも朗らかでいられるでしょう」(手紙22,8)。
「毎日、心から謙遜になることから、心を込めて祈ることから、きっちりした目的をもって働くことから始めるのです。被造物と話すのは少しにして、ほんの少しにして、そのかわりに、主とたくさんお話しなさい。主があなたを本当の賢者にしてくださるでしょう」(手紙22,10)。
「神様と一つになる心を、出来る限り保ち続けるのです。絶えず神さまと共に生きていてください」(手紙23,3)。
わたしたちの会憲には、行動における観想や、日々の神秘性についてさえ言及されていませんが、内的一致を培い、わたしたちが何をするにも神のみ前にとどまることができないとすれば、わたしたちの召命への応えを断片的、表面的に生きる危険を冒すことになります。
年毎の黙想会、毎月の静修、そして毎日の黙想は、日々行われる内的統合の歩みの段階です。
わたしたちは、聖人聖女を形作ってきた、堅実で厳しい、魅力的で挑戦的な霊性を受け継ぐ者であり、個人的及び共同体的貢献によって今日、これを豊かにするために委ねられています。
ある現代作家によれば、神秘家とは、歩みを止めない人のことです。自分に何が欠けているのかを確信し、通り過ぎるすべての所はどこも一時的、仮のものであり、何かほかのものがあるはずだと理解しています。
神秘家は、ユリシーズのように未来ではなく、目に見えないものに属している希望のマストに自らを縛り付け、同時に世界の痛みに関わり、それに注意を払っています。
マードレ マザレロ、本会の福者、尊者、そして神のしもべたちは、この日常性の神秘家の一例であり、現実問題としてそれなしで、わたしたちは召されている者になることはできません。
わたしたちの善意、内的刷新、聖霊の声に全面的に素直でありたいとの願いを、耳を傾ける聖母、扶助者聖マリアに委ねましょう。日常生活を聖性と使命へのいのちを生みだす大地へと変えながら、わたしたち皆が望むキリストの完全な姿へと徐々に導いてくださいますように。
扶助者聖マリアと聖霊降臨の祭日が、わたしたち、青少年、家族、そして世界のための絶え間ない祈りの中で、平和の贈り物とわたしたち皆に必要な恵みを信頼して願い求める深い交わりの体験となりますように。
わたくしの祈りをお約束し、心からの愛を込めてご挨拶します。
ローマ 2023年5月24日
皆様を愛するマードレ